戦中と戦後の区別なく”人生の一部に沖縄戦” 那覇出身26歳、「話したくない」という祖母に重ねて50人の体験聞き取り

80年前の6月23日に終結した沖縄戦について、50人近い体験者の声に耳を傾けてきた若者がいる。
那覇市出身の大阪大大学院生、石川勇人さん(26)。
原点は、体験をかたくなに語らない祖母の存在だった。
活動を重ねた今、祖母の苦悩の理由に近づけた気がしている。
石川さんの祖母(93)は、13歳の時に宮古島で沖縄戦に巻き込まれた。
米軍の上陸はなかったが、連日の爆撃に加え、食糧難からくる栄養失調やマラリアの流行で、多くの島民が命を落とした。
「ひもじい体験をした」。
小中学校の宿題もあり、幼い頃から何度も祖母に体験を尋ねたが、それ以上は「話したくない」と語ってくれなかった。
「周りの子はいろいろ聞いているのに、なんでだろう」と疑問に思っても、特に関心を持つことはなかった。
しかし、その意識が変わる出来事があった。
高校3年の時、戦後に沖縄から移住した祖父母らを持つ日系3世の海外学生を沖縄に招待し、交流するイベントに参加した。
家族に聞いた沖縄戦体験を発表し合うプログラムで、「わが家では沖縄戦は語られないんだよね」と話すと、同じグループになった南米の学生3人は驚いた表情で言った。
「沖縄に住んでいるのに、沖縄のこと何も知らないんだね」
直接的な表現にハッとさせられた。
「おばあちゃんが語れない理由を知りたい」。
県外の大学への進学を考えていたが、沖縄戦を研究するゼミがあった沖縄国際大に進路を変えた。
大学2年から、地域で体験の聞き取りを始めた。
ある女性は、自身が敵機に見つかったことで爆撃を受け、一緒だった1歳のおいが命を落としたと悔やみ続けていた。
別の女性は、「家族が無事だった私は、両親を失った夫の前では沖縄戦を語れない」と苦しい胸の内を語った。
それぞれがつらさや引け目を抱えていることに気づいた。
証言を拒む人、家族には話せないが第三者になら打ち明けられるという人……。
わずかな表情や声色の変化、発言の「間」からも心情を読み取ろうと懸命に向き合った。
凄惨(せいさん)な描写を聞き続け、心身が不安定になったこともあったが、「あなたのように受け止めてくれる聞き手をずっと待っていた」との声に背中を押された。
2023年に大阪大大学院に進んでからも戦争体験の継承を研究テーマに据え、沖縄戦体験者の聞き取りを続け、7年ほどで50人近くに話を聞いた。
活動を通じ、体験者が何を感じてきたかを次世代の人たちが知る手がかりを記録する重み、存在した命や生きざまを記録に残す大切さを実感する。
集めた証言は、論文にまとめたり、学校などでの講演で紹介したりしている。
祖母は今も石川さんには体験を語らない。
しかし、最近になって、通っているデイサービス施設の介護福祉士には話をするようになった。
介護福祉士の話では、ある時、祖母の目の前に爆弾が落ちてきたが、不発弾だったために命が助かったという。
石川さんが聞き取り活動を続けていることを喜びつつ、「爆弾が落ちた時が本当に怖くてしゃべれない。孫にはどうしても話せる勇気がない」と漏らしたと聞いた。
聞き取りを重ねた今なら、そんな祖母の葛藤にも寄り添える。
「彼らに、戦中と戦後の区別はない。人生の一部に沖縄戦がある。80年前も今も、地続きなんです」
◆ 沖縄戦とは
太平洋戦争末期の沖縄での地上戦。1945年3~4月にかけて慶良間諸島や沖縄本島に上陸した米軍と旧日本軍との間で激しい地上戦となった。沖縄防衛を担った旧日本軍の第32軍は本島南部へ撤退。6月23日、牛島満司令官が自決し、組織的戦闘が終結したとされる。死者数は日米合わせて20万人にのぼった。
沖縄戦は戦後、ひめゆり学徒隊の元学徒ら語り部の活動や、犠牲者の名を刻んだ「平和の礎(いしじ)」(沖縄県糸満市)など様々な形で継承されてきた。
体験した住民への聞き取りが本格化したのは、沖縄県史に体験が収録されるようになった1970年代で、地元の教員や歴史研究家らが取材と執筆を担った。
平和社会学が専門の沖縄国際大名誉教授、石原昌家さん(84)は同大の教員に着任した70年、県史の編さんに加わった。
以来、半世紀以上にわたって県内各地へ足を運び、数千人から証言を聞き取ってきた。
自身は沖縄出身の両親の移住先だった台湾で生まれ、沖縄戦を体験していない。
記憶を呼び起こすつらさから証言をためらう人も多かったが、「子や孫に同じ地獄を味わわせないため、何があったか記録に残さねばならない」と説得した。
「自分も体験していたら、つらさに共感して踏み込めなかっただろう」と語る。
聞き取りの取り組みは、県内外の研究者らに受け継がれた。
だが、体験者の肉声を聞けなくなる日が刻一刻と近づく。
石原さんは「蓄積されてきた記録の一部を教育現場で紹介し、子どもに思い浮かんだ情景を絵に描かせるなど、工夫を重ねて記憶をつないでいってほしい」と話した。
参照元:Yahoo!ニュース