《オナラ1日500回》中2で突然起きた異変「授業中もつねに恐怖だった」IBS(過敏性腸症候群)の女性に訪れた転機

「10代のころは1時間に70回、1日で500回もオナラが出たこともあるんです」。
IBS(過敏性腸症候群)を患っているHARUさんが自分の体の異変に気付いたのは中学2年生のころ。
突然の出来事に驚き、戸惑い、恥ずかしさで頭がいっぱいだったと言う。
── HARUさんがIBS(過敏性腸症候群)だと自覚したのはいつごろ、何がきっかけでしたか。
HARUさん:IBSの症状をはっきりと自覚したのは中学2年生の秋でした。
授業中に突然、オナラが止まらなくなってしまったんです。
クラスメイトがたくさん授業を受けている静かな教室で、自分の意志とはまったく関係なくオナラがずっと止まらない。
それが一時的な体調不良によるものではなくて、数日間にわたってずっと続いたのです。
戸惑い、驚き、恥ずかしさで頭がいっぱいで、最初のころは誰にもその悩みを言えませんでした。
ただ、その状態が1週間も続いた時点で、さすがにおかしいと思って「便秘が続いてお腹が痛い」と母に相談したんですね。
母にでさえ「オナラが止まらない」と伝えるのは恥ずかしかったんです。
── 思春期であれば、なおさら恥ずかしくて言いづらい症状ですよね…。
HARUさん:母に連れられて受診した小児科でも、やはり「オナラが止まらない」という本当の悩みは医師に言えず「便秘で悩んでいる、おなかが痛い」としか伝えられませんでした。
一応その時点でIBS(過敏性腸症候群)だろうと診断はされて整腸剤を服用したのですが、その後も症状が改善しなかったため、消化器内科など複数のクリニックを受診することに。
でもどこを受診しても中年男性のお医者さんばかりだったため、「オナラが止まらない」といういちばんの悩みは打ち明けられないままでしたね。
そんな状態がずっと続いたため、学校の授業が次第に恐怖の時間になっていきました。
オナラの音は出なかったものの、オナラが止まらないうえにニオイが強かったので周囲に気づかれるかもしれない、笑われるかもしれないという不安に襲われて。
授業に集中できなくなってしまったんです。
一度、授業中にどれだけオナラが出てしまうのだろうと思って、回数を数えたんですよ。
1時間弱の授業の途中で70回を超えた時点で、もうあまりの多さに数えるのをそこでやめました。
──1日のオナラの平均回数が10~20回だそうですから、たしかにその頻度は生活に支障があったことが伝わってきます。
HARUさん:症状がピークに達していた10代のころは、おそらく1日に500回ほどオナラが出ていたはずです。
校外学習のバス移動時や塾の外部テストのように、密室に近い状況ではほぼ必ずその症状が出ていました。
クラスメイトが「なんか臭くない?」と言っているのが聞こえるたびに、「自分のせいだ」と何も言えないまま落ち込んでいました。
症状をどうしようもなくコントロールできないこと、そしてそれが他人に迷惑をかけてしまうことへの申し訳なさから、中学生だった私はどんどん自信を失っていきました。
教室にいるだけで心身ともに疲れて、保健室で過ごす時間が次第に長くなっていきました。
オナラを我慢するあまり、お腹がパンパンになって保健室に駆け込むことも多々ありました。
■大学で建築学科に進学するも
── その悩みを打ち明けられる友達はいませんでしたか?
HARUさん:仲のいい友達はいましたが、悩みを打ち明けることはどうしてもできませんでした。
学校の帰り道に公園でおしゃべりをするくらいなら楽しめるのですが、さらに仲良くなって、友達の家に遊びに行ったりお泊りに行ったりすることに抵抗があったんです。
「オナラが止まらない」という症状のせいで、どうしても一歩を踏み込みきれませんでした。
高校生のころは親に大量に買ってもらった浣腸を、常にポーチの中に忍ばせていたほどですから。
「どうして自分だけがこんな体質なのだろう?」と、当時は恥ずかしさと戸惑いでいっぱいの毎日でした。
誰にも相談できず、ひとりで抱え込んでいたこと自体もつらかったです。
ネットで検索しても、当時はIBSの情報がほとんど見つかりませんでした。
後からわかったことですが、IBSには下痢型・便秘型・混合型・分類不能型の4種類があり、私が発症していたのは便秘型だったんですね。
そして、日本で初めて下痢型のIBSを対象とした「イリボー」という薬が処方されるようになったのは、私が高校2年生のときでした。
ですから、いくら情報を探しても到底見つけようがなかった。
そんなふうにずっと悩みを抱えた中高時代を経て、「将来は建築家になりたい」という夢を抱いて大学の建築学部に進学したのですが、そこでようやく転機が訪れたのです。
── 大学ではどのような転機が訪れたのでしょう。
HARUさん:私が進学した建築学部では大学3年生から専攻コースが分かれるのですが、いちばん行きたかった設計コースはほかのコースよりも授業時間が格段に長く、かつ製図室での長時間作業が大前提だったんです。
密室で長時間、自由に席を立てない環境に耐え続けることは、IBSの私にはあまりに過酷でした。
どんなに努力しても体が限界に達するとどうにもならない。
症状が出れば、誰かに迷惑をかけるかもしれない。
その緊張感と体調の不安が重なって、悩んでいた期間はずっとIBSの症状も悪化してしまって…。
無理に続けていたらきっと自分は壊れてしまう。
その確信があったので、悩んだ末に設計の道は諦めました。
いちばん好きなことだったからこそ、悔しくて苦しかった。
ただ、結果的には別のコースを専攻したことがいい方向に転じました。
時間が余ったことで所属していた美術部の活動に力を注ぎ、部長を任されたことによって、初めて自分がマネジメントに向いている発見があったんですね。
あのとき「諦める」という選択をしたことが、今の自分に繋がっています。
おかげで卒業後はマネジメント能力を活かせる会社に採用され、やりがいのあるホテル開発の仕事に8年間携わることができました。
── 社会人になってからIBSの症状に変化はありましたか。
HARUさん:中高生のころよりはややマシになったという程度で、不発弾を抱えているような怖さはずっとありました。
実際、新入社員研修や勉強会の場面で、「オナラした?」とクスクス笑われたり、「臭い」と言われたりしたこともあります。
「自分の体ときちんと向き合おう」と決意したのは、27歳のとき。
そのころにはIBSについての情報も世間には増えていましたが、母以外には誰にも打ち明けたことがないままでした。
でも、あるとき勇気を振り絞って、誰にも言えなかった「止まらないオナラ」の症状を親友に電話で大泣きしながら打ち明けてみたんです。
彼女は私の話をしっかり受け止めて、最後に「話してくれてありがとう」と言ってくれました。
それをきっかけにIBSについて話す機会を少しずつ増やしていくなかで、共感されたり、「私も実は」と打ち明けられたりすることが増えていきました。
「誰にも言えない」と思っていた悩みが、実は誰かと共有できるものだった。そう気づいたとき、肩の力が少しずつ抜けていったように思います。
自分のウィークポイントをさらけ出すと、相手も自然と自分の弱さや悩みを話してくれる。
じつはみんなそれぞれに悩みを抱えていて、誰しもが何かに苦しんでいるんだ。
「私だけがつらいわけじゃない」と実感できたことは、私の人生においてとても大きな気づきでした。
自分の弱さを人にさらけ出すことで肩の力が抜けていったと話すHARUさん。
その経験をもとに、2021年にはIBS当事者が繋がる団体「IBS place」を立ち上げます。
現在は活動5年目、これまでにのべ1000人の方に、IBSに関する講演を行うなど、と繋がりを作ってきたそうです。
参照元:Yahoo!ニュース