音楽が衰退していく中で、自分はどうするか――「今、唯一の存在証明はライブ」50周年を迎えた山下達郎が目指す境地

今日4月25日、デビュー50周年を迎えた山下達郎(72)。
50年の間には、音楽を取り巻く環境もさまざまに変化した。
一方、山下は今もレコードをリリースし、30年以上続く自身のラジオ番組ではハガキでリクエストを募集する。
音楽だけではなく、落語や文楽をはじめ、「歴史の試練に耐えてきたもの」への愛着が深い。
変わりゆく世の中で重要なことは、「じゃあ自分はどうするのか」だと語る。
自身は文化の移り変わりをどう見つめ、歩んできたのだろうか。
インタビュー終盤、ポケットから取り出して見せてくれたものがある。
何の変哲もない黒いガラケーだ。
「通話はいまだにこれで通してます。スマホも持ってはいて、一応2台使い。スマホはもっぱら検索用で。SNSとか一切やってませんので。ガラケーがいいのは、独自のサーバーでセキュリティーが安全なところ。嫌なんです、ネットに自分が残した足跡を追いかけられるのって」
「やれ時代遅れだ、アナログだ、シーラカンスだと、ずっと言われ続けてきましたから。1986年に出したアルバム『POCKET MUSIC』、あれが僕にとって最初のデジタル・レコーディングだったんだけど、当時のデジタルはまだ全然未完成だったので、僕は引き続きアナログでリリースしたかった。CDではなくLPでね。そうしたら、前世紀の遺物にいつまで固執してるのかって、さんざんな言われようでしたよ。内実はアナログ機器の売れ行きが頭打ちだったオーディオ・メーカーが、CDプレーヤーを売らんがための戦略に、レコード会社が引きずられただけなんだけど。時代の趨勢なんてそんなもんなんです。80年代にはMTVが出てきて、音楽が次第に映像に従属していく結果となった。今や、歌は口パクでもいい、ダンスは実演じゃないと、という世界にさえなりつつある。歌を聴いているのか、ダンスを見ているのか、あるいはLED映像を見てるのか。まあ、メディアミックスと言えばそれまでなんだけど。音楽の作り手としては、そういう時代の流れの中で、どうしたら良質な作品を提供できるか、模索して努力する以外、やりようがない」
近年、サブスクリプションに配信しない方針が話題を呼んだ。
「別にテクノロジーを否定しているわけじゃないんです。ダウンロード配信はおこなってるし。サブスクに関しても、毎度おなじみ、発言の一部が切り取られて独り歩きしてるだけ。僕個人はやらない、と言っただけで、やりたい人はやればいい。サブスクはどこか一つを許諾したら、全世界のどこの誰かもわからない業者まで恩恵にあずかれるというシステムになっているのが気に入らない。あと、音楽がサブスクで聴けるようになったとして、じゃあ当の音楽の作り手の生活はどう担保されるのかという問題。サブスクの取り分だけで十分潤えるなんて、今はまだほんの一握りのビッグ・アーティストだけですよ。これから世に出ようとする若い音楽家には厳しい環境だと思うし、そういう構造の問題を抜きにして、サブスクを手放しで受け入れていいのかと言いたかっただけ。まあ、世の流れというのはいかんともしがたいんだけど、その結果、音楽文化が衰退してきている部分というのが、間違いなくある。自分が今の若者の年齢だったら、ミュージシャンはやれないだろうと思ってしまう、それが残念です」
1975年、22歳でシュガー・ベイブのフロントマンとしてレコード・デビューして以来、音楽一筋に活動を続け、今年50周年を迎えた。
唯一残したシュガー・ベイブ名義のアルバム『SONGS』も発表当時は鳴かず飛ばず。
生活は苦しく、20代半ばまで東京・練馬の実家暮らしだったという。
「50周年記念のリイシューを出すこともあって、昨日久しぶりに『SONGS』を聴き直したんだけど、我ながら今でも感じるのは、歌ってる声に世の中への恨みがましさが滲んでるなあ、って(笑)。メロディーはきれいで明るいけど、そこにだまされちゃいけません(笑)。背後にあるのは、都市生活者の疎外という“影”の部分。伊藤銀次と僕とで共作した『DOWN TOWN』なんて、まさにそうです。銀次や僕のような、大学をドロップアウトしてミュージシャンになった若者が、まばゆい街の喧騒を仰ぎ見るようにして書いたのが、あの曲だったんです。僕なんか東京は東京でも城北地区、池袋の生まれでね。戦後の闇市から始まった雑駁さがあふれていた。『雨は手のひらにいっぱい』にしたって、下北沢の通りを歩いてたら大型バスに泥水を思いっきり撥ねかけられた、そんな体験から生まれた歌ですから。東京のごくごく限定された一角から発生した音楽。そんな70年代半ばのサブカルチャーとしての屈折感が内包されているところに、従来のいわゆる歌謡曲シーンとの大きな違いがあったと思うんです。歌謡曲にはそういうファクターはあまり必要ない。日本全土に普及するような音楽であるためには、僕らのような、東京の片隅で生まれた小さな情緒なんてものは、むしろ邪魔でしょう」
歌謡曲全盛の中、“いばらの道”と思える方向へと進んだのは、「“作品として歴史に残せれば”という作家的かつプロデューサー的な承認欲求があった」から。
「大半の歌謡曲のように、消費し尽くされたくない。そういう意識は、シュガー・ベイブでデビューした当時から、すでにありました。高校生の頃、LPの解説で読んだドビュッシーの言葉に印象的なものがあってね。自分が書いた曲を批判された時にいわく、“この作品がいつまでもつかが、自分の課題なんだ”って。ポップ・ミュージックが消費文化の一部である以上、矛盾してはいるんだけど、それでも歴史の試練に耐えてきた音楽は歴然とある。僕が愛聴してきた中で言うと、50年代のドゥーワップがそう。曲で言えば『スタンド・バイ・ミー』とかね。1961年の曲だけど、今でも鑑賞に堪えうる。ビーチ・ボーイズの『ペット・サウンズ』もそうですよね。『ペット・サウンズ』は異端ゆえに歴史の試練に堪えた」
「そういう動機づけがあって音楽を始めたので、畢竟、俯瞰的というか批評的になる。歌っている自分に対してでさえ、“ああしろ、こうしろ”と指図するプロデューサーとしての自分がいるんです。その結果、どうしてもワンマンというか独裁的になってしまう。シュガー・ベイブは僕自身“みんなでバンドをやるんだ”という意気込みをもって始めたにもかかわらず、結局ワンマン・バンドになってしまった。自分の中にある音楽の理想が強すぎるんだよね。だからシュガー・ベイブを解散した時、もう一生バンドはやるまいと心に決めたんです。以来、自分のバック・バンドに名前ってつけたことがない。メンバーの名前を並べるだけ。ジャズと同じです。基本的に音楽って、喧嘩だから。50年、和気あいあいでやってたことなんて一度もないですよ」
自身の音楽活動に関する妥協のなさは、よく口にする三つのモットー、「テレビ出ない。本書かない。武道館やらない」にいみじくも表れている。
「決して一世を風靡しない。芸事は、自分の目が届く範囲でやらないと、自分じゃない自分が独り歩きするからね。よく言われましたよ、“なんで成功をもっと楽しまないんだ”って。だけどそれが音楽を始めたそもそもの目的じゃないから。好きなだけレコードを買えればいいのにと20代の頃は思っていたけど、その夢はもうかなっちゃったし(笑)。こうやって取材を受けたりしていると、何者かになったような気分になりそうなんだけど、世の中は私に対して興味のない人がほとんどなんだという認識でいるのが健全。生活も若い頃からほとんど変わりません。こないだも電車に乗ってアニメ映画を観に行ったとラジオで語ったら驚かれた。けど、そんなの普通のことでしょ」
一方で、「ポップ・カルチャーというのは大衆への奉仕」だと繰り返し語る。
「“大衆”というと、目に見えない漠然とした存在というイメージがあるけど、僕にとっての大衆とは、自分の音楽を聴きに来てくれる、自分の音と言葉を聴いてくれている人たち。そうした人たちへの奉仕を意味している。僕が何者で、どんな音楽をやっているかを知ってくれている、相互関係が成り立っている観客ですよね」
「そこを見誤ると、自己最大のヒット曲に対して“あれは本心でやった曲じゃない”とか言いだして、ヒット曲をライブで一曲もやらなくなったりする。それって果たしてライブなのかと。ポップ・カルチャーの本義に反してるのではと。僕は『クリスマス・イブ』を必ずやってます。サブカルチャー上がりといえども、それはやらなければ。観に来る人は、その一回しか観られないかもしれないんだから」
3000人収容クラスのコンサートホールでのライブにこだわってきた理由も、そこにある。
「ホールでのコンサートは、僕が自分の観客に対して感じている距離感と見合うんです。45年間それでやってきてます。東京ドームのような場所だと、観客がどんどん抽象的になっていくでしょ。その抽象化をなるべくなくしたい。一方で30人規模のライブハウスでなら、説得力はもっと増すんだけど、今度はそれこそ年間70本から80本はやらないと生活が成り立たない。この年齢だと、もうそれはつらい。コンサートホールは、その意味でもいい着地点です。ホールという容れ物を考えついたヨーロッパのやつ、すげえなと(笑)。客に飲み食いもさせずに椅子に縛りつける格好で、2時間とか3時間の間、ずっと音楽だけ聴かせるんだから」
「なのに今度はコンサートホールが存続の危機に瀕するようになってきた」。
そう憂慮の声も上げる。
「中野サンプラザ、神奈川県民ホール。僕、文楽が好きでよく観に行くんだけど、国立劇場が使えなくなっちゃって、ホールを転々とさせられてる。ひどいもんです。文楽って、太夫と三味線と人形遣いの三位一体だから、楽屋が大きくないと技芸員が入りきらないんです。それをどっかの誰かが利権目当てでぶっ壊そうとしている。伝統芸能ですらこのありさまですからね。だからこの国には文化がないと言わざるをえない。仕方がない。僕らみたいなポップ・カルチャーに対しても、何の援助もない。あ、別にほしくないですけど(笑)」
「1990年代と比べれば、東京では落語も文楽もだいぶ持ち直してきてますけどね。ひところは本当に滅びるかと案じてた。僕、人形遣いの桐竹勘十郎さんと大の仲良しなんです。まったくの同い年なんですが、“みんなとっくに定年退職してるけど、私はこれからなんだ”っておっしゃってる。芸事、特に文楽なんていうのは、70過ぎてようやく一人前という世界。そういう人を身近に見ていると、僕なんかまだまだだなと思う」
歴史の試練に耐えてきた、つまりは変わらないものへの憧憬がある。
「同じことをひたすら繰り返すことによる進化や成熟というのが絶対あるんです。文楽と同じく僕が好きな落語は、なぜ素晴らしいか。落語家は百回高座に上がって、百回同じことを繰り返す。基本的に一言一句変わらない。しかも、観客は内容を熟知していても、なお聴きに来る。こういうことを言うと、退屈じゃないんですか?と聞いてくる人が必ず出てくるんだけど、ワンパターンのすごみというのをわかっていないだけです」
「海外のポップ・ミュージックには、それに近い境地のアーティストがいくらでもいたんです。ジェームズ・ブラウンしかり。B.B.キングしかり。スモーキー・ロビンソンなんか来日するたびに観に行ってるけど、いつも最初から最後までほとんど同じセットリストですから。日本のポップスはそのへんが脆弱……という話をしだすと、明治維新を境に脱亜入欧して以来の借り物文化だからって、大きな歴史の話になっちゃうんだけど」
変わりゆく世の中で、「今、唯一の存在証明はライブ」だとも語る。
「ライブは一期一会。その時一度きり。それは観客の記憶の中にのみ残る」。
「僕自身もう70を過ぎたことだし、ライブではもう“同じ”でいこうと思ってるんです。ただステージに出て何かやってればいい、そう言われるような存在になりたいなと。古今亭志ん生師匠の落語がそうでしたよね。酒飲んで高座に上がったあげく途中で寝ちゃったりするんですけど、客のほうが“寝かしといてやれ”って言う(笑)。洋楽ならジョアン・ジルベルトとかね。ギター弾くまで客が黙ってじ〜〜っと待ってる。そこまでいけば芸人と観客の絆は鉄壁ですよね。まだまだ自分は足元にも及ばないけど、そういう境地を目指したいなとは常に思っています」
参照元:Yahoo!ニュース