《音楽界から消えてラーメン店主に》93年鮮烈デビューの美声イケメン歌手、年商1800万円だった人気店を閉めた意外な理由「大声で叫び、わけもなく涙が出て…」の修行時代

ラーメンをイメージした写真

1993年、討論バラエティ番組『ビートたけしのTVタックル』(テレビ朝日系)のエンディングテーマ曲を歌い、35万枚とスマッシュヒットした『君は僕の勇気』(テイチクレコード)。

澄んだ高い美声で“和声ビリー・ジョエル”と言われたシンガーソングライターの東野純直さん(53、あずまの・すみただ)はその後、東京・昭島市にラーメン店「支那ソバ 玉龍」を開店。

二足のわらじを履きながら音楽活動を続けていたが、地元でも人気のラーメン店は2年前に閉店していた。

一杯に情熱を注ぎ込んでいた男にいったい、何があったのか──。

東野さんが閉店の真相ほか、深夜に泣き叫ぶまで追い詰められたラーメン修行エピソードなどを明かした。

「閉店の大きなきっかけはコロナでした。新型コロナウイルス感染症の影響は僕の店でも大きくて、国の支援策を活用して何とか耐え忍んでいましたが、コロナ明け後も客足は結局、もとのようには戻りませんでした。昭島市は都心よりも人口が少ないので、お客様の絶対数も少なく経営的に厳しい状況でした」

「何とか店を継続したい」と直前まで店を存続する方法を模索したが、2023年5月、6年間続いた店の暖簾を下ろす決断をした。

「近くにあった車の部品メーカーの会社が移転したり、目の前にあったイトーヨーカドーが撤退したりして、この先もお客さまが減っていくことも予想されたので“無念の撤退”でした。『玉龍』の味を好んで通ってくださったお客さまは惜しんでくださり、閉店直前は多くの方が並んで待って食べてくださったんですよ」

東野さんは36歳のとき、常連客として通っていた東京・目黒の名店「支那ソバ かづ屋」で修業を始め、2016年に44歳で「玉龍」をオープン。

自ら厨房に立ち、仕込みからすべてを行っていた。

「玉龍」の評価は高く、客の要望に応え、現在は業態を変えて通信販売で続けている。

「通販はコロナ禍のときに始めました。『玉龍』のスープは鶏ガラや豚骨でとった動物系スープと、昆布やシイタケなどの和風スープを合わせたダブルスープの醤油味が基本です。そのスープと麺、チャーシュー、メンマ、海苔を冷凍し、セットにしてお届けしています。店舗のときと同じように、ひとつひとつ僕がちゃんと作って送っています」

昭島は東京駅から快速電車で約1時間。

都心と比べると見込める客数が少ないこの場所に、そもそもなぜ、開店したのだろうか。

「『かづ屋』で一緒に修業をしていた中国人の男の子が、マスターの断りなく昭島市に『かづ屋』という同名のお店を開店して潰してしまった、という経緯がありました。その潰れたときが、ちょうど僕の修行期間が終了する時期で、マスター(師匠)にその店舗を勧められ、居ぬきで出店する決断をしました。昭島市の水は都内で唯一、深層地下水のみを水源としているので本当に水がおいしい。そういった背景もあってか、ラーメン激戦区でもあり、ラーメン好きが集まる地域なので昭島市に開店して正解だったと思います」

ラーメン通は味の変化に厳しく、手抜きはできない。

ラーメン作りは激務だった。

「昭島市で自分の店をやっていたときは毎朝5時起き。すぐに、スープが入った70リッター寸胴に火をかけ、ネギやチャーシューを切って……。11時に開店したらアルバイト1人に入ってもらいますが、作るのは全部僕1人。ランチとディナーの間にいったん店を閉めて3時間ほど休みますが、夜は10時に閉めて、それから片付けて寝るのは12時という毎日でした」

当時は店の2階が住居兼スタジオ。

移動に時間を取られないとはいえ、そんな生活を6年近く続けていた。

「独立前の修行のときはもっとキツかったです。昼間は音楽活動でリハーサルをしたり、取材を受けたりして店に出られないので、深夜枠で店に入って厨房でラーメンを作っていました。 夜8時から翌朝3時まで働いて5時に帰る、という生活をしていましたから。いつの間にか自律神経に変調が起きてしまって、わけもなく涙が出てきたり、バイクで帰宅途中に走りながらワーッて叫んだり……」

一時は音楽活動を休止せざるをえなかった「歌いたくない、ピアノなんて触りたくもない、と大好きだったものが嫌いになって『これはあきらかにおかしいな』と気付きました。それで1年近くの間、週2~3日ほど鹿児島から東京に呼び寄せた両親のもとに帰り、心も身体も休めるようにしていました」

両親のいる家に帰ると、東野さんは「守られている感覚に包まれた」という。

母親の作ってくれる温かい手料理を食べ、一緒に温泉に通うと、体調は徐々に回復していった。

「独立直前は五反田店を任されていたので責任が重く、多いときは一晩で150~160杯も売っていました。その点、独立後は自分のペースで作るので1日80~100杯。独立前に比べればだいぶ落ちつきました」

しかし、アーティストとしては危機に直面していた。

独立直前の心身共に疲弊していた2015年後半から世の中はCD離れが加速し、リリースをしたとしても大幅な減収も重なり音楽活動どころではなくなり、自信も失っていた。

「人生を変えてラーメン屋1本でやっていこうかな」──東野さんの脳裏に、そんな考えが浮かんでいたという。

参照元∶Yahoo!ニュース