ミサイル攻撃で人口の5分の1失った村 遺族夫婦に託された「運命」

積雪を踏みしめ、ウクライナ東部ハリコフ州フロザ村の墓地を歩くと、すぐに気づくことがある。
死亡日が「2023年10月5日」と記された墓が続いている。
この日、村では葬儀の集まりにミサイル攻撃を受け、人口約300人のうち59人が死亡した。
惨事から1年以上を経てもなお、戦争は続いている。
その日の午後1時20分過ぎ、庭で作業着を洗っていた警備員のワレリー・コジルさん(62)は、突然の爆発音に驚いた。
村では地元出身の戦死者の葬儀があり、この時間はカフェで昼食会のはずだ。
参列していた娘夫婦の身を案じて自転車で駆けつけると、辺りは煙に包まれていた。
カフェは大破し、数人が道に倒れている。
その中に、娘婿アナトーリーさん(当時42歳)の姿もあった。
娘のオリハさん(同36歳)はがれきの下に閉じ込められ、救出時には死亡していた。
隣で生き残った友人が聞いた最後の言葉は「生きたい」だったという。
娘夫婦は共に村で生まれ育ち、親から見ても理想的なカップルだった。
「二人で近くの湖畔でのんびりするのが好きだった」とワレリーさんはしのぶ。
妻リュボフィさん(56)も、二人の写真を見返すと、いとおしそうに手でなでた。
失意の夫妻には孫が残された。
長女ダリーナさん(19)、長男ドミトロさん(17)、次女アナスタシアさん(11)の3人。
夫妻は親代わりになると決意した。
子育ては2回目だが、「今は携帯電話もあり、世代間のギャップを感じることも」とリュボフィさんは打ち明ける。
それでも、話し合いで関係を深めようと努めている。
国外移住の誘いもあったが、一家は村にとどまると決めた。
「孫らも残ることを選んでくれた」と語る時、ワレリーさんのほおは少し緩んだ。
あの攻撃の話題はなるべく避けている。
孫らにはつらい事件だからだ。
精神面で負担が大きいと、孫への取材も断られた。
ただ、ダリーナさんは取材中の祖母に笑いかけ、気遣って温かい飲み物を持ってきた。
カフェの跡地には、犠牲者全員の名前を刻んだ慰霊碑が建つ。
周辺の建物は爆風などで壊れたままだ。
遺体の中には、損傷が激しく、DNA型鑑定でようやく身元確認できたものもあった。
英BBC放送は、計8人の子供が両親を亡くし、フロザは「孤児の村」になったと報じている。
ウクライナのゼレンスキー大統領は「残忍な犯罪だ」と発生直後からロシアを非難した。
露側は「攻撃は軍事関連施設に限っている」と反論したが、国連の調査は、攻撃は露軍によると推定し、周辺に軍事関連施設はないと結論づけた。
村は、全面侵攻が始まった22年2月以降、ウクライナが9月に奪還するまでの間、露軍に占領されていた。
現在は前線から約30キロに位置し、無人航空機などの攻撃にさらされている。
逆縁を生んだロシアに対し、ワレリーさんは「魂が引き裂かれる思いだ。言葉に言い表せない」と悲憤する。
ただ、村は国境に比較的近く、露側に暮らす親戚がいる世帯が大半という。
「3年も戦争が続くと思わなかった。すでに多くのウクライナ人が亡くなっている。政治家たちは、争いを外交で解決できないのだろうか」。
平和の到来を願いつつ、市民の思いとは無関係に戦闘や交渉が展開される現実も理解している。
娘夫婦を失った悲しみについては「孫がいなければ正気を失っていた」と振り返る。
「神は私たちと孫が生き続けるようにした。それが運命なら、これからは孫たちのために生きる。彼らを良い人間に育てる」
雪景色の中でそう誓う祖父母の背中を、夕日が柔らかく照らしていた。
参照元∶Yahoo!ニュース