病院も胚培養士も足りない――不妊治療、都市部と地方の格差をどう埋める?

2022年4月、不妊治療に保険が適用された。
費用負担の軽減もあり、同年の体外受精の総治療件数は前年比で4万5千件以上増えた。
だが、保険が適用されてなお、そうした機会を享受できていない人もいる。
地方に住む患者だ。
顕微授精など高度な不妊治療を行える医療機関が近隣に少ないことが第一の理由だが、さらに踏み込むと、卵子や胚(受精卵)などを扱う「胚培養士」の偏りという課題が浮かんできた。
どんな対策が必要なのか。
地方の患者、胚培養士を多数抱えるクリニック、胚培養士を育成する大学などを取材した。
不妊治療が保険適用になってから、3年が経とうとしている。
治療を検討する人が増えるなか、今どんな課題があるのか。
各地の患者やクリニックなどを独自取材した。
本記事は後編で、地域間の格差について取り上げる。
高度不妊治療のクリニックまでは車で1時間福島県郡山市に住む絢音さん(仮名、34歳)は、結婚後、不妊が分かった2023年夏から近所の専門クリニックに通院。
そこでは、初歩的な治療は受け付けていた。
妊娠しやすい時期に性交渉を行う「タイミング法」。これで妊娠に至らない場合は、動きのよい精子を子宮に注入する「人工授精」に進む。
それで結果が出なかった場合、卵子を取り出して体外で精子と受精させ、培養して胚にした後に子宮へ戻す「体外受精」を行う。
絢音さんは「タイミング法」を連続して行い、「人工授精」も3回実施。
この2つの治療を1年近く続けたが結果が出なかった。
そこで体外受精ができる別のクリニックに行こうと考えたが、そのステップへは簡単に進めそうになかった。
体外受精など高度な不妊治療を受けられる医療機関は福島県では8施設あるのみ(2024年7月時点)。
もっとも近いところでも、絢音さんの家からは車で1時間かかる。
数が少ないために患者が集中しており、予約は「1〜2カ月待ち」「次の治療まで期間が空くことが多い」と患者仲間から聞き、焦りが募った。
不妊治療の保険適用には条件がある。
胚(受精卵)を子宮に戻す「移植」の回数で、40歳未満の人で最大6回まで(子ども1人につき)、40歳以上43歳未満の人で最大3回まで(同)と制限があるのだ。
絢音さんが気にしたのは、40歳までに6回までという条件だった。
県をまたいだ宮城県仙台市にも体外受精で実績のある病院はある。
だが、こちらも東北一円から患者が殺到して予約が取りづらい状況だという。
絢音さんは疑問を呈す。「福島県で一番人口の多い地域に住んでいるのに、途切れずに高度な治療を受けられる病院が近くにないのはおかしいと思います」
不妊に悩む地方在住の患者の中には、絢音さんのような思いを抱いている人は少なくない。
地方には不妊治療のクリニックが少ないのだ。
長く自由診療だった体外受精などの高度な不妊治療(以下、生殖補助医療)は、2022年4月に保険が適用された。
2022年度に体外受精の総治療件数は前年度と比較して4万5千件余り増え、約54万3630件へ増加。
同年の体外受精での出生児数が約7.7万人となり、初めて総出生数の10%を超えた。
保険適用後は経済的負担の軽減により「若い患者の受診の増加」と「生殖補助医療へ治療を進めやすくなった傾向」が見られたという(日本産科婦人科学会が実施した意見聴取の結果)。
一方で、地方では生殖補助医療を受けられる医療機関の不足という課題が浮き彫りになった。
生殖補助医療の保険診療を届け出た医療機関は全国で625施設。
ただ、その施設は全国均等に分布しているわけではない。
10施設以下の府県が33(都道府県の7割)に上り、岩手と佐賀は2施設のみだった。
対して、東京には110施設あった(2024年7月時点)。
同様に医師の数も偏っている。
2024年4月時点で、日本生殖医学会が認定する「生殖医療専門医」は全国に1083人(他に米国に1人)。
東京、神奈川、愛知、大阪以外の43道府県の平均は13人。
東北地方6県の平均は9.7人。
それに対し、東京都は268人だった。
地域に施設や医師が少なければ、その施設に患者が殺到する。
もともと不妊治療の患者は絢音さんのように、年齢を気にしていることが多い。
治療が遅れれば、その分、妊娠する機会を逃してしまうリスクもある。
その結果、都市部にある専門クリニックを求めて地方から足を運ぶ患者もいる。
「都市部では治療メニューや治療実績を見て『どこで治療を受けようか』というところから始まる。ですが、地方では『どこなら治療が受けられるのか』で悩むことになります」
医療法人浅田レディースクリニックの浅田義正理事長そう語るのは、医療法人浅田レディースクリニックの浅田義正理事長だ。
20年以上の実績をもつ同クリニックは、愛知と東京、計3カ所の拠点で高度な不妊治療を行っている。
東京の「浅田レディース品川クリニック」には、沖縄など遠方から多額の交通費をかけて通ってくる患者もいるという。
なぜ、高度な治療を行う施設が全国に広がっていないのか。
浅田理事長は、不妊治療特有の事情をこう話す。
「不妊治療は、海外で顕微授精などの修業を積んで日本に戻った医師などにより、都市部で始まった医療。自由診療で費用も高額でした。だから、地方では展開しにくかった。それが長く続き、地方では高度な治療を受けられる施設が十分に整備されないまま、保険適用になったわけです」
地方での施設の少なさには、もう一つ事情がある。
「胚培養士」が地方に少ないことだ。
胚培養士とは、精子と卵子を受精させ、胚(受精卵)にし、その胚を培養したり、凍結保存したりする専門職のこと。
不妊治療における体外受精では欠かせない存在だ。
現在は農学部、畜産学部、獣医学部、生物学部などで学んだ人が胚培養士を目指すことが多い。
資格を持たなくても胚培養士になれるが、日本卵子学会が認定する「生殖補助医療胚培養士」という検定資格がある。
この資格を持つ人は2022年度時点で1509人。
同年度の全国の生殖補助医療施設数で割ると、1施設あたりの人数が平均2.4人にすぎない。
この胚培養士の不足が地方での課題だと浅田理事長は言う。
「胚培養士こそ、高度な不妊治療を支える主力の人材。いい胚培養士がいないと、採取した卵の生育率も悪くなれば、胚盤胞(はいばんほう。着床できる状態に成長した受精卵)に到達する比率も悪くなる。ひいては妊娠率も悪くなる」
胚培養士が一人前になるためには、3年から5年かかる。
手技的な技術や、生物学や発生学など多彩な専門知識の習得が必要で、生殖補助医療の質を左右する要の人材だという。
だが、地方ではその重要な胚培養士をなかなか抱えられない現実がある。
中部地方のあるクリニックでは、昨年1人雇用した新人の胚培養士が、1年もたずに退職。
一方で、同地方の県庁所在地にある小規模施設では、採用されて間もない新人(胚培養士の資格なし)の教育に追われている。
業務と並行して新人を教える負担は大きいと、その小規模施設の先輩胚培養士は嘆息気味にいう。
「やっと新人が来てくれても、教える側の手が足りない。ベテラン培養士を採用したくても大手の取り合いになっていて小さなところには来ない。都会の給料のいい施設のほうが魅力的でしょうね……」
クリニックとしても悩ましい現実がある。
胚培養を行うには胚培養施設が必要で、その運営にもコストがかかる。
円滑に運営していくには、それなりの患者数が必要だが、地域によってはそう患者が多くないところがある。
一方、胚培養士にとっても、待遇やキャリアなど地方で働くメリットは多くない。
新人であれば一定の練度を身につける時間や教育が必要だが、先輩に余裕がなければそれも難しい。
では、都市と地方とで、培養施設の環境はどれほど違うのか。
1台1000万円を超える培養器を何台も備えた「加藤レディスクリニック」(東京・新宿区)。
日本で最大級の生殖補助医療の体制を有するこのクリニックには63人の培養士が在籍し、うち40人が「顕微授精」のスキルを持つ。
加藤レディスクリニック培養部副部長の伊藤基樹さん良好な培養成績を支えるのは、安定した培養環境の整備と経験豊富な胚培養士の技術によるところが大きいと培養部副部長の伊藤基樹さんが言う。
「高い技術力を持った培養士が多く所属している利点は、卵子の状態を観察して顕微授精に最適なタイミングを複数の目で見極められること。また、デリケートで慎重な操作が求められる顕微授精には集中力が要る。1人あたり1日5件程度に抑えて、体制を整えています」
設備面では22台のタイムラプスインキュベーター(胚の発育過程を動画で一定時間ごとに撮影・記録できる培養装置)を導入し、全ての胚を24時間観察可能な環境を整備。
培養室内の作業はバーコードなどでシステム管理され、取り違えのリスクは皆無だという。
こうした先端的な環境を十分に導入できるのはそれなりに患者数が多い施設だからだろう。
加藤レディスクリニックに保管される、胚や卵子を保存する凍結保存容器人口の少ない地域のクリニックで胚培養士を抱えるのは負担が大きいと前出の浅田理事長は言う。
「胚培養士は年間120〜150回の採卵をこなす施設で1人の配置というのが大方の目安。けれども、1〜2人体制では休暇が取りづらく、ワーク・ライフ・バランスが保てない。本来は胚培養士が3人ぐらいの体制じゃないと、質の高いラボの運営は難しい。その人数を雇うためには、生殖補助医療の実績の目安である『胚移植』の実施数が年間500回以上は必要です」
こども家庭庁のサイトで検索できる「不妊治療を実施している医療機関」に掲載されている東北6県の45施設(大学病院も含む)のうち、浅田理事長が目安とした胚移植500回以上の条件をクリアしていたのは6施設だった。
胚培養士の人材獲得とラボ運営というハードルの高さが、地方で生殖補助医療施設が増えていかない根本理由だと浅田理事長は指摘する。
そんななか、胚培養士不足の解決策として、大学教育の一環で胚培養士を養成するプログラムを組み込む試みも始まった。
甲府盆地の中に位置する山梨大学。
1月中旬、実習室を訪ねると、学生たちがマウスの胚を使って細胞採取の練習に取り組んでいた。
山梨大修士課程のバイオサイエンスコースで胚培養士として必要な技術を学ぶ「生殖補助医療胚培養実習」の一コマこれは、胚移植前に胚の染色体数などに異常がないかを調べる「着床前遺伝学的検査」の工程の一つ。
採卵した卵子を受精させて5日間培養した胚盤胞の将来胎盤になる細胞から、検査用に5〜10細胞ほど採取する。
日本産科婦人科学会の施設審査を経て認定された医療機関で行われる検査で、将来赤ちゃんになる細胞を傷つけないよう、細心の注意が求められる。
2回目の挑戦だという学生は、緊張した面持ちで顕微鏡を覗く。
失敗しては同じ操作を繰り返す。
習熟には長い期間を要することが伝わってくる。
山梨大は2022年4月に、胚培養士養成のための「高度生殖補助技術センター」を新設。
同大の生命環境学部生命工学科と大学院生命環境学専攻バイオサイエンスコースで学部・修士課程での6年一貫教育を目指している。
2023年には修士課程で、現役のベテラン胚培養士や生殖医療専門医による授業も開講。
現在、12人が学んでいる。
山梨大高度生殖補助技術センターの古里咲綺乃特任助教指導にあたる古里咲綺乃特任助教は、キャリア7年の現役の胚培養士。
実習で行っていた手技は相当高度なのだと話す。
「検査に用いる細胞を多く取りすぎると、その後の発育に悪影響を及ぼす可能性がある。逆に少なすぎても解析ができない。顕微鏡を覗きながら少量の細胞を取るには、繊細な技術が求められます」
山梨大で動物の「発生工学」を学び、関連の研究室に配属された学生は、日常的に動物の生殖細胞や受精卵を扱っている。
高度生殖補助技術センターでは実習室に顕微授精用の機器を拡充し、臨床用の生殖技術の練習をできるようにした。
同センターの岸上哲士教授によれば、胚培養士を目指す学生は、年間10人程度。
少人数のため、医療系を含めてすべての専門の先生を大学院にそろえてカリキュラムを作るのは見合わず、学内外の教員の協力が不可欠と語る。
「生殖補助医療の現状を見ると、地方のクリニックで胚培養士が1〜2人です。大学から巣立った胚培養士が地方の不妊治療の場に根づくよう、将来的には少子化対策として、自治体が地域枠の奨学金制度を作るなどの方策が有効かもしれない」
十分な人数が養成されるにはまだ一定の年月がかかるだろうが、それまでの期間、ただ待つわけにもいかない。
そのため、昨今は東京と各地域のクリニックを提携させる取り組みが始まっている。
都市部で胚培養、地方で通常の診察という提携昨年から浅田レディースクリニックは「Central ART Lab」というプロジェクトを始めた。
浅田と各地域の産婦人科などが提携し、通常の検査や注射は地域の医療機関で実施し、生殖補助医療に伴う採卵や受精、胚培養などの高度な処置のみ、都市部にある浅田の専門施設で行うという仕組みだ。
浅田のCentral ART Lab事業部次長の北坂浩也さんによれば、通常、一連の胚移植・妊娠確認までの治療過程では10回以上通院が必要だが、都市部の専門施設への訪問は3回程度に抑えられるという。
冒頭の郡山市の絢音さんも、悩んだ末にこの仕組みを利用することにした一人だ。
提携先の福島市のクリニックに転院し、高度な治療の時だけ浅田レディース品川クリニックに通った。
福島市のクリニックまでの通院には片道1時間。
東京への通院は新幹線を利用したが計3回で済み、2024年10月から12月の移植まで、最短のスケジュールで妊娠に成功したという。
「成功してみて、地方と都市部のレベルの差を感じました」と絢音さんは言う。
地方の医療として持続していくためには、胚培養士が不妊治療に不可欠という認識が広がる必要がある。
実習で出会った山梨大学大学院の学生で、今春、培養士として地元・静岡のクリニックへの就職を控える男子学生は、胚培養士という職業の認知度はまだ低い状況と語る。
「不妊治療という医療の現場では裏方ですが、子どもを持ちたい患者さんの希望をかなえるような大切な仕事。これから多くの人に憧れられる職業になってほしい」
全国で悩む不妊治療の患者のために、アクセスしやすい治療環境をどう整えられるか。
裏方の育成も求められている。
参照元∶Yahoo!ニュース