2月活動休止「フジファブリック」、弁護士になった初期メンバーの感謝「皆さんがいたから今の正彦もある」
「若者のすべて」などの楽曲で知られる人気ロックバンド「フジファブリック」が今年2月に活動を休止する。
昨年7月の発表時、多くの人の心をざわつかせた。
フロントマンとして活躍した志村正彦さんが2009年に29歳で逝去してから、現メンバー3人は「フジファブリックという大切な場所を音楽を作り続けながら守っていく」という覚悟で走り続けた。
前身のバンド(当時:富士ファブリック)を志村さんらと立ち上げた創立メンバーの一人、小俣梓司さんは、活動休止を受けて「メンバーのみなさん、本当にありがとうございました」と感謝の言葉を口にする。
同級生の志村さんの活躍を心から喜びながら、「負けてられない」と奮起した小俣さんは、のちに弁護士になった。
大人になるにつれて道は別れたが、友情は変わらず続いた。
インタビューの2024年12月25日、小俣さんが働く法律事務所がある東京・銀座はクリスマス一色。
前日が志村さんの命日だった。
生前、志村さんは、プロミュージシャンとしての多忙な活動を送る合間を縫って地元・山梨県富士吉田市に帰ってくることがあったと、小俣さんは回顧する。
「地元に帰ってきた正彦を大月駅(山梨県)まで車で送った記憶があります」
志村さんの生前最後に会ったのは、2009年3月の高校の同級生の集まりだったという。
ピアノが弾ける小俣さんがキーボードとして加わるかたちで、高校の同級生で後の「富士ファブリック」を結成。
「高1のころはユニコーンやイエモンをコピーして、それがだんだんとアレンジを加えたカバーをするようになり、高2から学園祭などでライブもするようになりました。オリジナルをやるようになったのは高3のころ。正彦が曲作りを始めたのがきっかけです」
メンバーの実家の「家業」がバンド名にもなったのは有名な話だ。
そこで4人は音楽を練習した。
「みんなマクドナルドやピザの配達のバイトをしていました。あとは正彦だけプレステの鉄拳という格闘技ゲームが弱くて、麻雀もやらない。とにかく音楽に打ち込んでいた」
小俣さんは楽しそうに「正彦は授業中よく寝ていた」と振り返る。
受験期になって一時休止していた活動は、東京に上京して再開されたが、のちにさまざまな理由で、志村さん以外の3人はバンドを抜けた。
ジャズやソウル、ブラジル音楽が好きな小俣さんと、J-ROCKでプロになりたい志村さんとの間で温度差があったという。
「バンドに注目するメジャーやインディーズのレーベルもあって、音楽でメシを食おうとしていた正彦の楽曲が認められ始めていたところです。中途半端に片手間ではできず、抜けなければいけないと考えました」
創立メンバーとしての活動は終わって、それから志村さんと「フジファブリック」の活躍は周知の通りだ。
小俣さんたちとの関係は変わらずに続いていった。
ときおり志村さんから著作権のことを尋ねられ、司法試験の勉強中の小俣さんが答えることもあったという。
ただ、小俣さんから音楽の話題に踏み込むことはなかった。
「正彦は私と一緒にバンドをやっているときに私の意見を尊重してくれて。バンドを抜けた私の意見でも耳を傾けるかもしれない、そういう奴なんです。正彦がやっている音楽は正彦とメンバーさんたちが良いと思ってやっているものですから、音楽の話はあまりしませんでした」
大学を卒業後、父親が亡くなると、地元に戻って継いだ家業の業績は低迷した。
家庭教師のバイトもしながら、弁護士を目指して司法試験の勉強をする日々を送った。
「このままじゃ人生終わる」と焦っていたころ、2008年にフジファブリックの地元凱旋ライブをみた。
「私たちがライブした当初のお客さんは知り合いばかりでした。知っている人じゃなくて、知らない人に聴いてもらうにはどうしたらよいかみんなで考えていました。凱旋ライブでお客さんがたくさんたくさん来てくださって、とにかく本当によかったなと思ったんです。『茜色の夕日』を聴いて、富士ファブリックをやっていたときのこととかも一気に思い出してしまって、もらい泣きしてしまいました」
友だちの活躍を目の当たりにして感動すると同時に「これだけ正彦に頑張られると大変だ。負けてらんねーぞ」とも感じた。
メジャーデビューした志村さんのライブを見たのは最初で最後になってしまったという。
訃報は突然のことでショックは大きく、どうやっても処理しきれない思いがあふれた。
「やりたいことがまだまだあったはず。『弁護士になった』と直接言えなくなってしまった」小俣さんの中で何かが変わった。漠然としていた弁護士への志望の決意を固め、法科大学院に進学。自分の実家のような中小企業を助けるために働きたい。そんな思いを改めて再確認して、「人生で初めて」ちゃんと勉強したという。法科大学院を2014年に修了すると、司法試験には一発で合格。そこから現在は、東京・銀座の「街弁」としてあらゆる相談に応じる毎日だ。弁護士として10年になる。そのうち、フジファブリックは、志村さんがいたころより、3人体制での活動期間が長くなった。
志村さんを失ってからも継続を決めた現メンバーに、ひとかたならぬ感謝の気持ちがある。2010年7月のバンド主催イベントに招待されてから、現メンバーとはゆるやかに関係が続く。「正彦が繋いでくれたご縁」と小俣さんは言う。「今のメンバーのみなさんが一緒にバンドをやってくれたおかげで正彦はハッピーだったと思います。それだけじゃなくて、みなさんが続けてくださったおかげで、今の正彦もあるんだと思います」発表前にキーボードの金澤ダイスケさんから電話で活動休止の知らせを受けたという。「残されたメンバーのみなさんが一番大変だったでしょう。最初は何をやっても比較されるだろうし、きっと試行錯誤をしていたはずで、それでも続けてくださってありがたいです。そんな気持ちがずっとあります」バンドの故郷である富士吉田市では2012年から、志村さんの命日にあわせて、12月21日〜27日まで防災無線のチャイムに『茜色の夕日』が流れる。バンドも志村さんも愛され続けている。
弁護士の本業は多忙を極める。「来るもの拒まずで、なんでもやっています。これからも中小企業さんのお役に立てたらと思っています。企業さんと深く関わることで、業界のことも勉強できる。もっと声をかけてもらって、飛び込ませてほしいです。企業案件でも、人の心の機微が紛争の核になっていることが少なくありません。それを解決するのも弁護士の仕事です」「街弁」としてあらゆる相談に取り組みながら、犯罪被害者支援にも力を入れている。件数は多くなくても、知的財産分野の仕事が飛び込んでくると楽しいという。法科大学院ではほとんど明かさなかった「富士ファブリック」の経歴も、弁護士になってからいつの間にか知られるようになった。「カラオケで『若者のすべて』を歌わされるのがイヤで黙ってたんです(笑)。今は覚えてもらいやすいからありがたいです」弁護士会のバンドを掛け持ちすることもあった。
変幻自在な音楽性で「天才」「カリスマ」とも呼ばれた志村さんだったが、小俣さんの目には「こんなこと言ったら怒られちゃうけど、初めから音楽的な天才ではないと思っています。正直、努力の天才」と映っている。「普通のどこにでもいそうな男子高校生がすげえ頑張った。普通の大学生が楽しむ時間をすべてストイックに音楽に打ち込んだ。努力がすごかったんです。あいつが天才だから簡単にできたとは思わないでほしいんです。自分の中にあったものをなんとか苦労して引き出した。それができたことを天才と呼ぶのならそうなのかもしれないけど、とにかく努力がすごいやつだと思います」そして、友だち思いの「いいやつ」だとも。「素朴なところとか不器用なところとか普通なところとか、シャイですけど友だちへの思いやりがあるところとか。正彦のそういうところが好きです。欲を言えばね。今も生きていてほしいですね」「富士ファブリック」の友情はそのままだ。地元に帰った時に3人でセッションすることもある。志村さんの家族とも親交が続いている。「私とへいちゃん(ベース)とたかさん(ドラム)はバンドを抜けることになったけど、富士ファブリックは、ぼんやりとした友情の結合体のようなもので、そのうち正彦はプロに、私は弁護士、へいちゃんは『いつもの丘』(※編注)の神社の神主さんになって、たかさんは地元で楽しくやっていて、富士吉田に帰るといつも温かく迎え入れてくれる。ある意味、自分たちの富士ファブリックは今も続いている感じです」富士吉田市の街並み(※編注)インディーズ時代の楽曲シングル『浮雲』の歌詞に「いつもの丘」が登場する。ここには忠霊塔があり、展望台から富士吉田の街並みと富士山が一望できる。
参照元∶Yahoo!ニュース