「生き残った実感湧いた」吉野家の牛丼を30年間、毎年1月17日に食べる男性 避難所で初めて食べた炊き出しの味 感謝忘れず

牛丼を撮影した写真

30年間、毎年1月17日になると牛丼チェーン「吉野家」を訪れ、牛丼を食べる男性がいる。

神戸市長田区在住のフリーライター松村真人さん(48)。

きっかけは1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災だった。

電気やガスが復旧しない中、避難所で初めて温かい食事を振る舞ってくれたのが吉野家だった。

「初めて温かい食べ物を食べたことで生き残った実感がようやく湧いた」という松村さんに話を聞いた。

1995年1月17日午前5時46分。

神戸市長田区の自宅で就寝中だった松村さんは、地鳴りで目が覚めたと同時に、激しい揺れに襲われた。

同区は激震のあとの火災で甚大な被害を受けた地区。

松村さんの自宅は火の手は免れましたが、周辺の家屋は軒並み全壊や半壊に。

「自宅は壁が割れて家具のほとんどが倒壊し、塀なども倒れましたが判定としては一部損壊でした。近隣は全壊半壊が入り混じり、お昼前後には近くの大規模火災地域から巻き上げられたらしき木材やトタンなどが庭に降っていました」

翌日、松村さんは近所に開設された避難所に向かった。

しかし、到着したときにはすでに人であふれかえり、電気ガス水道が止まった自宅での在宅避難をすすめられた。

避難者としてはカウントされていたため、水や弁当が配給される時刻になると避難所へ通う生活が始まる。

一週間ほど凍った弁当が続く中、避難所の野外で炊き出しがあるという知らせが届いた。

「豚汁1杯でもありがたい」。

いてつく寒さの中、列に並んだ松村さんに振る舞われたのは、吉野家による温かい牛丼だった。

「屋外の巨大なお鍋から牛丼の具が出てきて、容器に入れてくれました。目の前にできたての牛丼があることに現実感が湧きませんでしたが、食べた瞬間に五感がよみがえるような衝撃でした。交通も通信も電気も途絶して復旧に関する情報が届かない中、遠くから調理器具や食材が運びこまれる程度に復旧の気配が近づいているという実感も湧きました」

自宅で食事の準備ができるようになったのは約2カ月後。

「当時は被災状況に対する感覚がマヒしていて明確には覚えていないが、ガスか水道が復旧したのが3月下旬だったと思うので、おおよそ60日くらいかかったと思います」

翌年から松村さんは、1月17日になると吉野家を訪れることが習慣になった。

訪れる店舗はJR兵庫駅店や、ここ数年は高速長田駅前にできた長田五番町店など。

決まった店舗はないが、毎年欠かさずに足を運んでいる。

「大きな理由という感覚はなく、正月ムードが過ぎて震災何年という雰囲気になると、炊き出し時の牛丼の味を思い出して自然と足が向く感覚です。当時は撤去作業が進んで少しずつ変わっていくとはいえ、復興と呼ぶには程遠い瓦礫と焼け野原だらけの町で、せめて何か節目のようなものが欲しかったのかもしれません。ただ、東日本大震災以降は1月の阪神・淡路大震災の話題性が減ったことで、今まで無意識に食べに行ってたものが逆に意識するようになりました」

松村さんは今年の1月17日も吉野家を訪れる予定。

「ささやかな自己満足としての感謝、震災前の華やかな神戸への哀愁、復興の進まない地元への諦めなど、いろいろな感情が入り混じります」

阪神・淡路大震災の発生から30年。

神戸の街を見て感じることは。

「中心市街地は速やかに復興が進んだのと裏腹に、未だに震災復興が進んでいない地域があちこちにあります。被災地全てを助けられるわけではないとはいえ、復興失敗と言われる新長田周辺に比べてすら、高速長田駅周辺の震災復興状況の落差は残酷です」

大震災の経験者として伝えたいことは。

「防災対策や震災直後の支援など地震そのものに対するノウハウは次の災害に生かせますが、復興は地域ごとの歴史や成り立ちが大きく関わっています。地元民にしか分からない壁や溝が震災を機に別の形になって現れることも、震災復興の重要なポイントだと思います。三陸には三陸で地域ごとの苦悩があったでしょうし、これから能登でも同じことが起きていくと思います」

参照元∶Yahoo!ニュース