80年前のきょう起きた南海トラフ地震 数少ない資料と存命者が伝える揺れと津波の教訓

地震をイメージした写真

三重県や愛知県に大きな被害をもたらした昭和東南海地震から、12月7日で80年。

南海トラフで発生した過去の地震を知ることで、その教訓を考える。

愛知県碧南市で映像制作などを手掛ける宮本雅文さん。

以前オークションで落札したという古いアルバムの中から、線路脇の護岸などが崩れている白黒写真を見つけた。

写っているのは、現在の名古屋港ガーデンふ頭の東側とみられる。

「ここに『昭和東南海地震』と書いてあるので、地震の被害で間違いないかなと」(宮本さん)

1944年12月7日、熊野灘を震源とするマグニチュード7.9の巨大地震が発生した。

昭和東南海地震です。愛知県では438人、三重県では406人が亡くなった。

当時は太平洋戦争末期で、厳しい報道管制が敷かれていた。

被災地ではどんな支援が行われていたのか。

愛知県碧南市に当時の活動を記録した資料が残されていた。

地元の震災復興記録には、震災翌日から被災者に食料の配給があったと書かれている。

「『非常配給ヲ給与セシ者ノ氏名』とある。日付が書いてある。12月8日には、これだけの人にコメ、たまり(醤油)、味噌、この人にはマッチ、酒が1升配給された」(碧南市文化財課 調査員 伊豫田祥子さん) 

支援の早さの背景には、戦時下だったことも影響しているのではないかと伊豫田さんは考えている。

「戦争の非常時ということで、どんな動きをしないといけないのかということが、地方自治体の末端まで浸透し、訓練されていたのかなと思います。それが逆に、震災の時に生きたのかなと」(伊豫田さん)

昭和東南海地震で、津波の被害が深刻だったのが三重県だ。

山々に囲まれた集落の先に遠浅の海が広がる、熊野市新鹿町。

国の調査によると、地震で高さ8.4mの津波が襲い、集落の3分の1の住宅、151戸が流失。

16人が亡くなった。

町内には、地震や津波の痕跡を伝える石碑が点在している。

これらの石碑の一部は、地元の有志がお金を出し合って建てた。

その一人が、小学5年生の時に被災した山田智一さんだ。

40年ほど前に新鹿の被災者たち3人で津波の調査会を結成。

新鹿の被害状況や体験者への聞き取りなどをまとめて、本にした。

「子どもに尋ねられた時に答えられるよう、分かっている範囲で記録に残しておこうと、他の2人に声をかけて始めた。丸3年かかった。全部私費で、3人で」(山田智一さんの妻 税子さん)

山田さんは2年前に88歳で亡くなったが、「新鹿の津波」は、地元の小学校や国立国会図書館で貴重な資料として保存されている。

町内には、当時の震災を今も鮮明に覚えている人がいる。

「怖かってん、やっぱり。地震が怖かった。その次は津波を見て、また怖かった。怖さがあったから、余計に覚えているんだね」(喜田庫三郎さん)

山田さんの同級生でもある喜田庫三郎さん(91)。

当時は体育の授業中で、運動場で地震に遭ったといいう。

「『津波だ、逃げろ』と大きな声でおじさんが必死な声だって感じたな。津波の怖さは僕らは分からんけど、必死に叫ぶ声が何か怖いことが起こるんじゃないかという感じでね。女の子どもさんなんか泣く人がおった」(喜田さん)

必死で駆け上った裏山から見下ろす町を、津波が飲み込みんだ。

「ワーッと盛り上がってくる感じだったね、海面が。家を押し潰して、今度はサーッと引く。その引き潮がすごかったね」(喜田さん)

昭和東南海地震は、南海トラフ沿いの地域を震源とする地震の一つだ。

この地方に大きな被害をもたらすとされる南海トラフ地震が、近いうちに起きてもおかしくないと言われている今、体験者として私たちに伝える教訓は。

「とにかく大きな地震は予想以上によく揺れる。ここにいたら、こう逃げたらいいとか、そういうことは普段からしっかり覚えておく。訓練で覚えてもいいし、家庭でやってもいいし、個人でもね」(喜田さん)

参照元∶Yahoo!ニュース