安楽死は家族のため 「死にたい」娘のエゴ、「生きてほしい」親のエゴ 涙ながらに口に入れた致死薬

難病の痛みから逃れたい人

完治の見込みがない難病と闘い続ける日本人女性・くらんけさん(仮名、当時30)は、安楽死するためにスイスにやってきた。

これまで抱えてきた心のうちを医師に明かした。

「私が死にたい気持ちを優先するのがエゴなのか、生きてくれと頼む両親の気持ちがエゴなのか。その狭間でずっと悩んできました。しかし、私は死にたいのです」

全身全霊をかけて闘病生活を支えた両親は、安楽死に強く反対していた。

そんな両親を説得したくらんけさんは、医師から処方されたコップに入った致死薬入りの液体を、ストローで吸い込んだ。

口の中で強い苦みが広がっていく。

「やっと楽になれる」

傍らでは父親が娘の手をぎゅっと握り、目を真っ赤にしながらもその最期を見届けようとしていた。

記者である私の目の前で、1人の若い女性が自らの意思で命を終えようとしている。

安楽死について、私は彼女と2年近くにわたってやりとりを続けてきたが、今はなすすべもなく、ただ立ちすくむしかない。

「本当にこのまま亡くなってしまうのか」

2019年11月、待ち合わせ場所の九州地方のあるカフェに、車椅子に乗ったくらんけさんが姿を見せた。

娘の身なりを整え「待ってるからね」と退出する母親と、「ありがとう、終わったら電話するからね」と優しく声をかけるくらんけさん。

互いを思いやるやりとりから、母娘の仲睦まじさが垣間見えた。

難病のCIDP(慢性炎症性脱髄性多発神経炎)を患うくらんけさんは、手首から先と足を動かすことができない。

両親に介護されながら一日の大半をベッドで過ごしているが、この日は私の訪問に合わせて、外出してくれた。

「介護する両親は老いていく一方で、私は強い罪悪感を感じながら生活を続けています。安楽死が認められたことで、ようやく人生を終えることができ、解放感でいっぱいなんです」

両親と2人の姉をもつくらんけさんは、末っ子として家族から溺愛されて育った。

しかし、6歳の時にCIDPと診断されたことで、幼くして壮絶な闘病生活が始まることになる。

ステロイド薬の大量投与と免疫療法など、あらゆる治療を尽くした。

その度に頭痛や発熱、吐き気などの副反応に襲われた。

全てをなげうって支えてくれる両親に「悲しい顔をさせてはいけない」との思いから、どんなに痛みが伴う治療や検査でも涙を流さずに耐えた。

小学生の頃から「全ての感情に蓋をしてきた」という。

6歳から20年以上にわたる治療は、激しい苦痛にも関わらず目立った効果がなく、心を徐々に蝕んでいった。

検査に伴う副反応で鼻の粘膜を削り取る手術をした際は、激痛がトラウマとして残り、パニック障害にまで発展してしまったという。

幼い頃から感情に蓋をして「頑張り屋さん」と認識されていたくらんけさんが、泣きわめく姿を周囲に見せるようになる。

彼女がこれ以上の治療を望まないことを伝えると、主治医からは完治の見込みはないと、はっきり告げられた。

この頃から、安楽死の選択を考え、家族にも伝えるようになった。

CIDPは投薬を続ければすぐに命に関わる病気ではないが、終わりが見えないことが何よりも辛かったという。

家族全員が安楽死に強く反対した。

特に両親は「一生懸命育ててきたかけがえのない存在。どうしても死んでほしくない」と懇願した。

だが、くらんけさんにとっては、そんな大切な家族だからこそ、「両親や2人の姉に介護させる一生なんて、絶対に嫌だ」と譲らない。

最終的には両親も「親のために生きてくれとまでは言えない。賛成はできないが、自分たちのエゴで反対もできない」と折れてくれた。

くらんけさんは、海外で安楽死を認めてくれるスイスの団体に申請し、2019年10月に許可が下りた。

「これで全てが終わる」と解放感に包まれる一方で、家族への一抹の不安を心の奥底にしまい込んだ。

「私がいなくなった後、この両親はちゃんと生きていけるだろうか」

新型コロナウイルスの流行に伴う渡航制限が緩和された2021年8月、くらんけさんは父親に伴われて、スイスのチューリッヒ空港に到着した。

私との2年ぶりの再会に笑顔を見せるくらんけさんに対し、父親は終始、沈んだ表情のまま私の前で言葉を発することはなかった。

母親は「自分の娘を看取ることなんてできない」として、同行を拒否して自宅にとどまった。

出発の日、2人の姉も家で見送ってくれたが、傍らでは母親が泣き崩れていたという。

くらんけさんは、スイスまでの付き添い人を雇うことも検討していた。

だが、父親が「他人に娘を連れていかれるくらいならば、自分で最期を見届けたい」として、同行を決断した。

スイスに到着した翌日、安楽死を認める最終審査の結果が出ると、それまで平静を保とうとしていた父親に変化が生じた。

深夜、突然、震え出して、娘に隠れて泣いていた。

「発狂しそう」と呟き、寝ている娘に「手をつないでほしい」と頼むこともあったという。

父親の傍らでは、くらんけさんもほとんど眠ることができなかった。

どんなに高額な医療でも、娘の回復を信じて治療の選択をし、働き続けた父親。

娘を叱咤激励し、テニスボール大の円形脱毛症を作りながらも笑顔を絶やさずリハビリをサポートしてくれた母親。

「自分の命は、自分だけのものではない」。そう感じているくらんけさんは、家族の行く末を心配して心が揺れていた。

「こんなに仲の良い家族を残して、彼女は本当に安楽死を遂げることはできるのだろうか」。

私にはそんな疑問が徐々に強くなってきていた。

記者が他人の生死に口を挟む資格などない。そ

れでも、私は安楽死予定日の前日、意を決してこう切り出した。

「もう1度、日本に戻って、考え直してみることはできないかな」

しかし、くらんけさんは、少しあきれたような表情で私をたしなめた。

安楽死当日、安楽死団体「ライフサークル」(現在は新規会員の受け入れ終了)の施設で、代表のエリカ・プライシック医師と最後の意思確認が行われ、父親も同席した。

「心の準備はできていますか」と尋ねるプライシック医師に対し、くらんけさんは「まだ迷っています。自分1人だけならば100%死にますが、どうしても両親の顔を浮かべてしまいます」と涙をこぼした。

ここでプライシック医師は、父親に意見を求めた。

「親が娘の安楽死を許さないのがエゴなのか。それとも娘が死にたいと思うことがエゴなのか。お父さんはどう思いますか」

「少しでも生きる可能性を見出してやる。それが親の務めです。日本ではその責任もあるし、そういう社会です」

答えを濁す父親に対し、くらんけさんは苛立ちや悔しさから慟哭し、怒気を含めて言った。

「もう回答になっていない。私は安楽死します」

安楽死の準備が整った。

くらんけさんは父親の手を借りて、リクライニング式のベッドに上がった。

傍らに立った父親は「再生医療とかいろいろ試したかったけれど、それを待つにはもう先が長すぎるかもしれないね。あなたの気持ちを尊重するよ」と言った。

そして、娘の手を取り感謝の思いを告げた。

「パパの娘で生まれてくれてありがとうね」

一瞬たりとも娘の姿を見逃すまいとする父親の視線に、くらんけさんは「パパ、恥ずかしいから、あんまり、じろじろ見ないでよ。みんなによろしく、と伝えてね」と精一杯の笑顔で返す。

彼女の目からは、大粒の涙が溢れていた。

スイスでは医師が患者に薬物を投与して、死に至らせる行為は禁止されているため、処方された致死薬を、患者本人が体内に取り込む必要がある。

くらんけさんは、プライシック医師から処方されたコップに入った致死薬入りの液体を、ストローで吸い込んだ。口の中で1滴、2滴と強い苦みが広がっていく。「やっと楽になれる」。

父が娘の手を握り、目を真っ赤にしながらもその最期を見届けようとしていた。

くらんけさんはその時ふいに、痛いほど自分の手を強く握る父親の気持ちを想像して、いたたまれない気持ちになった。

さらには日本に残してきた母親や2人の姉、かわいがっていたペットの顔が走馬灯のように甦り、急激な罪悪感に襲われた。

それ以上、涙でむせて、致死薬入りの液体が飲み込めなくなった。

異変に気付いたプライシック医師が、泣きじゃくるくらんけさんに尋ねた。

医師:「どうしたの」

くらんけさん:「私は両親や家族を無視することができません」

医師:「ストップして。あなたはお父さんと一緒に家に帰るべきよ。あなたは心の準備ができていない。今、死んではいけないわ」

くらんけさん:「ごめんなさい」

医師:「大丈夫。あなたは両親にこんな仕打ちをしたくないと思っているのよ。とても勇敢だわ。運命があなたにもう少し生きることを望んだのよ」

くらんけさん:「はい」

その瞬間、父親は嗚咽しながら、娘を目一杯の力で抱きしめた。

安楽死を直前で取り止めたくらんけさんは、口に含んだ致死薬を吐き出し、1時間ほど横になった後、私に話をしてくれた。

「今まで家族に助けてもらったことが、揺らぎの要因です。今日死ななかったことを悔やむ日が絶対に来ると思います。それでも、家族との時間を優先しようと思うのも私の選択です」

2度と来ることはないと思っていたチューリッヒ空港には、くらんけさんと車椅子を押す父親の姿があった。

スイスに降り立って以来、終始、強張った表情をしていた父親は、別人のような笑顔を見せた。

スイスで安楽死しようとしたくらんけさんが、日本に戻ってから3年。

私は2024年2月、再び九州地方に住む彼女のもとを訪ねた。

「あの時、死んでおけばよかったという思いは日増しに強くなっていて、ただ後悔するばかりの日々です。死ななかったからといって病気が治るわけではないし、あらためてそれを突きつけられた気がしました。今も安楽死したい思いは、全く変わっていません」

そう話すくらんけさんは、帰国後に自身のこれまでの人生と体験を記した1冊の本(「私の夢はスイスで安楽死」(彩図社))を出版した。

そこには、安楽死を選択する「娘の意思を理解しなければならない」と思いながらも、「それでも生きてほしい」と切実に願う両親の苦悩の言葉が紹介されている。

「可能な限り『娘が望む人生の送り方』を、親としてこれまで以上に支え受け入れる努力をしたいと思っています」(父)

「私の願望が娘の苦悩を上回ってしまっている自覚はある」「できる限りずっと私が支え、一緒に過ごしたい思いは変わらない」(母)

私は初めてくらんけさん(当時28)と会った際、このケースで安楽死が認められるのは適用範囲が広すぎるのではないかと、内心思っていた。

しかし、20年以上にわたる闘病生活が彼女の人生に与えたダメージの重さは、私の想像をはるかに超えていたことを、5年にわたる取材を通して痛感している。

彼女は今も「死にたい自分」と「生きてほしい家族」の狭間で生きている。

そんな彼女に、私は「あなたにとって、家族とは何ですか」と尋ねた。

「家族は私の生命線の最後の砦です」

参照元:Yahoo!ニュース