免許センターがやたら「アクセスの悪い場所」にある根本理由

運転目免許センターで普通車を運転している人

運転免許を持っている人にとって、免許更新などで運転免許センターに訪れることは避けられない。

しかし、多くの人が訪問するたびに、「どうしてこんな場所にあるのか」とうんざりした経験をしているのではないだろうか。

実際、運転免許センターは市街地から離れた場所にあり、そのアクセスの悪さは全国的な悩みとなっている。

日本全国には運転免許試験センターが94か所しかなく、その分布は都道府県ごとに均等ではない。

例えば、東京都には3か所、千葉県には2か所しかない。

神奈川県と埼玉県に至っては1か所しかない。

まとめると、運転免許センターが遠く感じられる主な理由は、

・各都道府県に設置されているセンターの数が限られている

・多くのセンターが市街地から離れた場所に位置しているためだ。

今回は、多くのセンターが市街地から離れた場所に位置している理由を考えてみよう。

今回はまず、埼玉県警運転免許センター(鴻巣市)について調べた。

同センターは県央部に位置し、運転免許を持つ埼玉県民なら誰もが1度は訪れたことがある場所だ。

最寄りの鉄道駅はJR高崎線の鴻巣駅だ。

鴻巣市民や近隣の熊谷市、行田市の人々ならいざしらず、川越市などの東武東上線沿線に住む人にとっては非常に不便な場所にある。

公式な交通案内は次のとおりだ。

・JR高崎線鴻巣駅から徒歩25分、バスで10分

・東武東上線の東松山駅からバスで40分

・JR埼京線川越駅からバスで約60分

高崎線沿線の住民以外には、アクセスの悪さが目立つ。

埼玉県がこの地に免許センターを開設したのは1987(昭和62)年だ。

当時の経緯は、埼玉県議会の議事録に次のように記されている。

「運転免許センター構想についてでありますが、「現在、運転免許試験については試験場、行政処分にともなう講習については、埼玉県安全運転学校、更新時講習は各種指定自動車教習所等で実施しているが、これらを運転免許センターに集中し、交通安全教育をより充実、推進してまいりたい。

予定地については、鴻巣市にある国の農事試験場跡地を含め検討中である。」とのことであります」(埼玉県議会1987年9月定例会での臼田徳太郎県議による交通対策特別委員会の報告)

農事試験場は農林水産省が設置した施設で、1981年に筑波に移転した。

この施設は、実際に田畑に作物を植えて試験を行うための広大な面積を持っていた。

運転免許センターには事務手続きだけでなく、「実地試験用のコース」も必要だ。

そのため、広い土地が求められ、交通の利便性よりも広大な用地の確保が優先されたのだ。

ここで重要なのは、「運転免許試験については試験場、行政処分にともなう講習については、埼玉県安全運転学校、更新時講習は各種指定自動車教習所等で実施しているが、これらを運転免許センターに集中し」という部分だ。

重視されたのは、コースの広さではなく、業務を集中して行うための十分な面積を持つ施設の確保だったのだ。

現在、免許の更新手続きはセンターや警察署に行き、講習を受けるだけで数時間程度で済む。

混雑していても、半日もかからずに新しい免許を受け取ることができる。

しかし、当時は手続きが異なっていた。

更新時期が来ると、最寄りの警察署や教習所で講習を受け、その際に事務手続きも行うが、免許ができるまでには約1か月かかり、再度窓口に出向いて受け取る必要があった。

運転免許保有者の増加により、従来の更新手続きが煩雑になり、社会問題として認識されていた。

そのため、業務を集約し、即日交付を可能にすることでこの問題を解決しようとした。

例えば岡山県では、1993年に岡山県運転免許センターが岡山市北部の現在地に移転した。

この移転にともない、新しいコンピューターシステムが導入され、すべての免許証が即日交付できるようになった。

ただ、この免許センターへの交通手段は、岡山駅などからバスで35分かかり、バスの本数も1時間に1~2本程度しかない。

それでも、旧所在地が岡山市南部にあったことを考えると、県の中央部への移転で利便性は向上したとされている。

即日交付実現までの道のり免許センター(画像:写真AC)

しかし、便利な仕組みがすぐに整ったわけではない。

現在、免許更新の際は、ほとんどの都道府県で優良運転者講習や一般運転者講習を受けることで、地域のどこでも、または指定された警察署で講習を受けた後、新しい免許証をすぐに受け取ることができる。

この仕組みが整うまでには長い時間がかかった。

例えば、埼玉県では、当初は免許センターのみで即日交付が可能だったが、その後、住所地を管轄する警察署でも即日交付ができるようになり、2003(平成15)年には県内のどの警察署で講習を受けても即日交付が可能なシステムが整備された。

このように時間がかかった理由は、運転免許センターと各警察署をオンラインで結ぶインフラの整備に必要な時間があったためだ。

『静岡新聞』1989年2月27日号では、1990年から静岡県でも各警察署で即日交付ができるシステムの開発が始まることが報じられ、「こうしたシステムを導入しているのは茨城県警の約半分の署と警視庁だけ」と説明されている。

このように、免許の事務手続きを集約するためには、センターが不可欠だった。

運転免許の取得時には不便を感じることがあるが、更新や各種手続きの利便性を考えると、全体的には大きなメリットがあるといえる。

では、免許の即日交付を目的に業務が集約された1980~1990年代以前に設置された免許センターが、なぜ辺ぴな立地になったのかを調べてみた。

神奈川県は埼玉県同様、人口が多いにもかかわらず、免許センターがひとつだけである。

現在、相鉄線二俣川駅近く(横浜市旭区)にある運転免許センターは1963(昭和38)年に開設された。

なぜここに設置されたのかを調べると、『神奈川県警察年鑑』に記録があった。

1963年以前の神奈川県の運転免許試験場は次のとおりである。

●第一試験場横浜市神奈川区六角橋町930番地第一種免許(普通免許を除く)第二種免許、第二種原付免許(法令試験を除く)

●第二試験場横浜市南区陸町2-199番地普通第一種免許

1962年の『神奈川県警察年鑑』には次のような記述がある。

「現行の試験場は、いずれも施設の狭あいと受験者の急増により、試験を能率的に行うことができなくなったので、昭和37年度から2箇年継続事業として、経費4億円をもって新試験場を横浜市保土ケ谷区二俣川町地内に建設中であるが2億円の初年度事業費を建物(事務室、学科試験室、適性試験室、待合室6950平方メートル)ならびに関連諸施設にあてこれを建設した。

試験コースは、昭和38年度において経費2億円をもって、コース面積75000平方メートル、コース延長7260mを施行すべく準備中である」

戦前は特別な技能であった運転免許だが、戦後は取得がブームとなり、試験を受けるのに長時間待たされることもあったようだ。

これに加えて、急増する受験者の事務処理を行うための組織の改編も課題だった。

1963年の『神奈川県警察年鑑』では、同年10月1日に二俣川の新施設が開所したと記載されている。

ここでは、より詳しい説明が掲載されている。

「免許証作成事務ならびに行政処分事務、指定自動車教習所管理事務とともに交通部交通第三課の主管事項として処理してきたが、運転免許試験の円滑な執行と、これら関係所掌事務の効果的な運営の観点から、横浜市保土ケ谷区中尾町55番地に神奈川県警察本部交通部自動車運転免許試験場を新設のうえ、本年10月1日より業務を開始し、同時に旧第一試験場を六角橋支所とし、横浜市内居住者の申請に関る原付(第一種、第二種)免許試験を担当させ旧第二試験場を廃止した」

これらの資料から、神奈川県では受験者の増加に対応し、事務処理を効率化するために運転免許センターを新設したことがわかる。

ただ、なぜ二俣川が選ばれたのかは資料からは不明である。

地図を見れば、設置当時は山林が広がっており、買収が容易な土地だったのではないかとも考えられる。

同様に、鹿児島県も免許センターが1か所しかなく、場所の問題から県内のどこからでも遠い場所に設置されてしまった。

鹿児島県の運転免許センター(鹿児島県総合運転免許試験場)は県中央部に位置する姶良(あいら)市にある。

最寄り駅はJR日豊本線の姶良駅と帖佐(ちょうさ)駅だが、どちらの駅からも遠く、鹿児島中央駅からバスでのアクセスとなる。

鹿児島では1932年に最初の試験場が現在の鹿児島アリーナの場所に設置された。

その後、1955年に国有地(鹿児島市下伊敷町の陸軍練兵場だった)を借りて新たな試験場が設置され、1959年には鹿児島市小野町に移転した。

しかし、ここも手狭になり、周辺の土地を買収して拡張を試みたが、受験者の急増には追いつかなかった。

当時の鹿児島県では受験者が殺到しており、申し込み受付は月2回に制限されていた。

最寄りの警察署に出向いて手続きを行う必要があり、試験日は先着順であるため、泊まり込んで並ぶ受験者もいた。

不合格になれば、再受験は最短でも10日後であった。

大隅や島しょ部の人々にとっては、試験日を何とか確保したものの、鹿児島市まで泊まり込みで出向かなければならないのは大変な負担だった。

そこで鹿児島県警は施設の拡充と事務の効率化を目指して移転を決定したが、土地の確保が困難だった。

市外の候補地を探したが、利便性の高い土地は見つからず、最終的には塩田だった現在地を買収することになった。

最初から立地は不便だったが、新試験場は当時九州一の規模を誇っていた。

受験が難しかった状況から一転し、不合格でも翌日に再受験できるようになった。

また、周囲には受験者向けの食堂や学科試験対策を行う旅館もでき、「西部の町」と呼ばれるようになった。

現在でも、その名残として周囲には学科試験対策を兼ねた宿泊施設が存在している。

このように、時代によって理由は変化しているものの、免許センターの移転・設置には業務の集約と効率化が最大の目的であり、利便性は後回しにされている。

しかし、立地が不便でも、受験機会が増え、免許の即日交付が可能になるなどのメリットのほうが多かった。

現在では、ほとんどの地域で最寄りの警察署で更新手続きが可能であり、免許センターに出向くのは一生に数回の人が大半かもれない。

こうしたことから、アクセスの悪さはあまり問題ではなくなったのかもしれない。

参照元∶Yahoo!ニュース