家族と隔てられ「絶望の淵」 ハンセン病患者たちが残した絵画の数々、命の痕跡を刻んだ芸術の行方

絵画を描いている人

ふるさとへの思い、自分と家族を隔てるもの、帰れない悲しさ。

生まれ育った大阪からハンセン病療養所に入所した少年が、絶望の淵で描いた「絵」がある。

「長島のゴッホ」と呼ばれたこの男性は今年、85歳で亡くなったが、生前描いた作品のほとんどは、どこかに散逸してしまったという。

「こんなすごいもの、捨てられたら困る」。

そうした思いで、患者・回復者たちの作品を後世に引き継ごうと奔走する動きもある。

「瞳に映るのはふるさとの光景。周りの黒いのは、自分と家族を隔てている鎖。帰れない悲しさや先行きへの不安を、そこに込めたのです」

今年2月に亡くなった山村昇さんは、生前、記者にそう語っていた。

ハンセン病と診断され、11歳のときに生まれ育った大阪を離れて、ひとり長島愛生園(岡山県)に入所した。

ずっとここから出られないのか。家族とはもう会えないのか……。絶望の淵で少年が描いたのが、1枚の瞳の絵だった。

見開いたまなこを影が縁取り、眼球の中には家々や電信柱が映る、不思議な構図。

のちに、ハンセン病患者・回復者たちの詩編を集めた「いのちの芽」というアンソロジー詩集の挿絵にも使われた。

その後も10枚ほど絵を描いた山村さんを、園内で親交があった詩人は「長島のゴッホ」と呼び、才能をたたえていた。

しかし、現在、「長島のゴッホ」の筆致をじかに伝えるものは、半世紀前に園内の施設を描いたという1枚だけだ。

瞳の絵を含め、作品のほとんどは、どこかへと散逸してしまった。

故郷の富士山の青々とした雄姿を描いた水彩画。

愛らしい地蔵とともに日々の思いを記した絵巻物。

何かを訴えかけるかのように、こちらを見つめる自画像。

国立ハンセン病資料館(東京都東村山市)では9月1日まで、企画展「絵ごころでつながる-多磨全生園絵画の100年」が開催されている。

ハンセン病と診断されて多磨全生園に入所した人々の描いた、絵画作品116点などを通史的に紹介する、初めての試み。

「絵を描くことがぼくらのすべてだ」

入り口には、ある入所者の詩からとった、そんな言葉が掲げられている。

企画展を担当した同館の吉國元学芸員は「当事者たちが抱いてきた言葉にできない経験や痛苦。そうしたものを、絵画は一撃で人に伝える力があるように感じます」と語る。

一方、今回展示された作品の多くは本画のためのデッサンや、資料からの複製だった。

実物の大半は保存されずに失われてしまったことに気づかされる。

背景には、入所者の作品を残すことの意義に対する理解の乏しさなどがあった。

北條民雄の小説「いのちの初夜」や明石海人の歌集「白描」、谺雄二の詩集「ライは長い旅だから」など、ハンセン病患者・回復者たちが世に送り出した作品は、日本の文学史において一つの位置を占めている。

しかし絵画では、文学作品のように保存・継承が進んできたとは言いがたい現状がある。

吉國さんは、隣接する多磨全生園の状況について「1970年代以降の絵画は寄贈などを通じてある程度保存されてきたものの、現在まで残ったものはごく一部に限られてしまう」と語る。

「療養所はあくまで医療施設なので、職員や入所者の間で絵画活動への理解が深くなかったのではないでしょうか。そのため、故人の絵画を残そうとする動機付けにも乏しかったと考えられます」

さらに、▽園内の限られたスペースで絵画を残すことが困難▽文芸は園内誌に掲載されて広く共有されたが、絵は個人の所有物にとどまった▽それゆえ、本人が亡くなるなどした際に処分されやすかった▽遺品として残っても、制作年や署名といった情報が記されないことが多く、史料として位置づけるのが難しい、といった点も影響していると指摘する。

吉國さんは「本人が現実に絵筆を取り、この作品に向かっていた。絵にはそうした身体の息づかいを感じるようなリアリティーがあります。ハンセン病患者・回復者の方々の生きた証しを示す上で、絵画作品を後世に引き継ぐことは、残された重要な課題です」と訴える。

「持ち主が亡くなれば、絵はどうなるんだろう?こんなすごい作品、捨てられたら困る。その一心でした」ハンセン病元患者たちの作品を残そうと活動するキュレーターの藏座江美さんは、そう語る。

熊本市現代美術館で学芸員をしていた2002年、菊池恵楓園(熊本県合志市)の入所者たちの絵画クラブ「金陽会」の作品に初めてふれた藏座さん。

大事に育てた花を描くもの、誰もが想像もしないような色で山を塗るもの。

一つ一つが、絵を描くことそのものへの歓喜や祈りをたたえ、生命の光を放っている。

その力に圧倒されました。

2007年には任された企画展の実施に向け、全国13カ所の国立療養所と韓国、台湾の療養所で残された絵画などを訪ね歩いたといいます。

そのなかで多くの入所者たちが、誰かが自分たちの作品を芸術として求めていることに驚き、「こんな時代が来るとは」と語っていたと、藏座さんは振り返る。

「その言葉には、『作品がもっと残っていれば』という無念さがにじんでいるように思えてなりませんでした」

2015年に美術館を退職して以降は、金陽会の作品の保存活動に注力。

ボランティアの手も借りながら、900点余りある作品群の画像を撮り、デジタルアーカイブ化した。

2022年には恵楓園内の資料館が新装され、いま、絵画たちはそこに保管されている。

以前に展覧会を見た中学生から、「後輩たちにも金陽会の絵を見てほしい。また学校で絵を展示してください」とのメールを受けとったという藏座さん。

「ほんの少しでも、絵を見た人々の中に何かが残り、その絵のこと、その絵を描いた人たちのことを思い出してくれればうれしいです」

「刻みつけてさへおけば何時かはふつとそのよき人達を思ひ浮べることが出来る」

国立ハンセン病資料館で渡された企画展の図録を開くと、多磨全生園の入所者だった山岡響さんの、そんな言葉が飛び込んできました。

誤った認識のもと、長きにわたって社会から隔離され、差別の対象とされてきたハンセン病患者・回復者の人々。

苦難の中にいた彼・彼女たちにとって、芸術活動は、去っていく仲間たちの記憶を、自分自身の命の痕跡を“刻みつけ”る、大切なよりどころだったのではないだろうか。

山村昇さんは、30代で右目、70代で左目の視力を失い、絵筆はとうに握らなくなっていた。

それでも、昨年6月にお会いした際、少年時代に描いた瞳の絵のことを詳細に語ってくれた。

わずかに残された絵画たちを前に、私たちは何を“思ひ浮べる”のか。

山村さんのまなざしが、今もじっとこちらを見つめているように感じてならない。

参照元:Yahoo!ニュース