性的虐待を繰り返す義父との地獄の10年間、成人後も消えなかった「自分は汚れるた体」 同じ被害に遭った人に伝えたい「あなたは何も悪くない」

神奈川県で暮らす鈴木絵里子さん(53)は4歳から10年間、義父からの性的虐待に耐え続けた。
両親の性行為も日常的に目にしていた。
成人後も「自分は汚れた体。男性の性のはけ口だ」という思いは消えず、自身を大事にできないまま、何度も流産や中絶を経験したという。
仕事で子どもと関わる人に性犯罪歴がないか確認する制度「日本版DBS」の導入を機に、「性的虐待の経験者が、どんな人生を送ることになるのか、聞いてほしい」と体験を語り始めた。
鈴木さんは1970年、20代の両親の長女として東京都で生まれた。
葛飾区で母方の祖父母と暮らしたが、母親は酒乱の夫から殴る、蹴るの凄惨なドメスティックバイオレンス(DV)を受けており、常にあざだらけだったという。
鈴木さんは言う。
「父は幼かった私に手を出すこともあり、髪の毛をつかまれて階段から落とされた記憶もあるんです」
見かねた祖父母が「このままでは殺されるから逃げろ」と母に伝え、鈴木さんと1歳下の妹は、母とともに夜逃げをした。
向かった先は神奈川県横須賀市。
母親が仕事をしていたスナックで知り合った19歳の男性の住居だった。
一家は男性と同居するようになり、母からは「この人が今日からお父さんになるんだよ」と伝えられた。
鈴木さんは4歳だった。
幼い鈴木さんに性的虐待を始めたのが、この義父だった。
「水商売をしていた母が夜、仕事に出かけていない間に、帰ってきた義父から体を触られるようになりました。裸にされて酒をかけられた上で、体をなめられたり、男性器に触れさせられたりしました。最初は遊ばれているのかなと」
しかし、虐待を終えると必ず「ママには言うなよ」と言われたことで、「後ろめたい行為なんだ」と感じるようになった。
さらに、狭い家の中で、母と義父の性行為を日常的に目にしたという。
「行為には昼も夜も関係ありませんでした。今にして思えば、これも性的虐待だったんでしょう。私に対して布団の中で散々触ってきた後に、母の布団に入って普通に性行為していた日もありましたね」
これらの虐待は、鈴木さんが中学生になるまで続いた。
鈴木さんは一人で耐え続けた。
「少しでも口にしたら、家がばらばらになって壊れちゃうって思っていました。だったら、自分一人が我慢すれば、と」
しかし義父による虐待はエスカレートしていった。
義父が転職して家にいる時間が増えるようになると、毎晩のように体を触られるようになった。
義父は家族が在宅する土日も、母と妹を買い物に行かせて2人きりになる時間をつくっては性的虐待に及ぼうとしたため、常に2人きりにならないよう気をつけたという。
体が成長すると、性交を強いられるようにもなった。
「いつも寝たふりをするので精いっぱいで、何をされても石のように固まっていました」
虐待について初めて他人に話すことができたのは、12歳の時だった。
鈴木さんは言う。
「小学6年生になって引っ越しをして、転校したんですが、その時に初めてできた女友達に打ち明けたんです。すると、『それは絶対、お母さんに言った方がいい』と言ってくれて。でも、怖くてすぐには言えなかったんです」
しかし中学生になり、マナーやしつけに対して口うるさかった義父に対し、あえて門限を破って帰ったり、友達と長電話をしたりする反抗を始めた。
そのたびに猛烈に叱られ、灰皿を投げつけられることもあった。
だが、ある日、門限を破って義父に怒られていた時、我慢の限界を感じた鈴木さんは、こう口走った。
「あなたが私にやったことを、胸に手を当ててよく考えてみて」。
母の目の前で、おえつを漏らしながら絞り出した一言だった。
母は押し黙ったままで、義父は「おまえは俺のことを愛していないんだな。それなら出ていくわ」と話して家を飛び出してしまった。
それでも鈴木さんは「家から魔物がいなくなって本当にうれしかった」と感じたという。
その後、数日たって母親が義父を連れ戻してきたものの、母からは虐待について何も聞かれず、母子関係は最悪になった。
だが結局、夫婦関係も悪化して両親は離婚。
鈴木さんは3人目の父親を迎えることになる。
再婚後、学校への交通費も昼食代も親から出されなかったため、高校生になった鈴木さん姉妹はアルバイトを掛け持ちしつつ、それぞれの交際相手の家に転がり込んだという。
実家には寝たきりとなった母方の祖母がいて、たまに様子を見に行くと、電気やガス、水道が止まっていた。
「いい大人が何やってんだ」と継父に物を申すと、命の危険を感じるほど殴られ、蹴られた。
「もうこんな家にいられない」と感じ、通っていた神奈川県立高校を17歳で中退し、家を離れた。
鈴木さんはその後、年上の男性と22歳で結婚。
計4人の子をもうけるが、家庭は貧しく、飲料の販売員や保険の営業など職を転々とした。
「子供を食べさせるためなら」と風俗店でも働いた。
働きながら鈴木さんがずっと抱き続けたのは、「自分は汚れた存在だ」という思いだったという。
「結婚と離婚を複数、経験したのですが、DVもありましたし、流産や中絶の体験も少なくなかった。若いころから、自分の体を男性の性のはけ口だと思い、避妊をせずにどれだけ求められても、なんてことはないという感覚が続いていたんです」
一方、そういう状態に置かれても男性を頼ろうとし、依存してしまう性格は直らなかった。
「このまま、自己肯定感が低いままでは同じ過ちを繰り返す。今度こそ、負のループから出なければ」。
そう誓ったのは、札幌市で共に暮らした男性と離婚した時で、鈴木さんは40代になっていた。
鈴木さんはかつて、25歳だった1996年、雑誌「女性自身」(8月6日号)の「近親相姦を告発する!被害者座談会」という企画に匿名・顔出しで参加し、義父からの性的虐待を証言したことがあった。
その後、公に証言する機会はなかったが、ブログなどに書き込んでいたという。
「自分の経験が、少しでも誰かの役に立つなら」。
そう思って発信を続けるうち、次第に性被害経験を持つ女性と知り合うようになった。
「虐待サバイバーに体験を語る中で、自分の人生は決して無意味なものなんかではなかったということに、だんだんと気づいていきました。それが自分を救うことになったのです」
さらに43歳だった2014年、家庭裁判所に申請し、姓を生まれた時の「鈴木」に戻した。
母親の再婚や自身の結婚、離婚などを経て、8回目の改姓だった。
「生まれた時の、汚れがない自分」。
そんな意味を込めて、手続きを進めたという。
また、自宅の一室で整体院を開き、経済的にも自立することができた。
そうして、次第に自身の経験を受け入れられるようになっていったという。
そんな自分の人生を振り返り、「道を踏み外さなかったのが不思議。紙一重で自分が犯罪者にならずに済んできたのだと思う」と話す鈴木さん。
経験を生かして、自分のように虐待を受けていた子どもたちや、受刑者への支援活動をしたいと思うようになったが、社会福祉士や精神保健福祉士などの資格は、高校中退の自分にはなかなか手が届かない。
そこで、宗教者であれば慰問などができると考え、通信教育で仏教を学び、昨年4月、僧侶の資格を取得した。
今夏からはNPO法人とともに、児童養護施設を卒業する子どもたちの就職に向けた心理的サポートを始めるという。
「支援の中で今後、性的虐待を受けた人たちに出会ったら、どんな言葉をかけますか」そう問うと、自分の体験を伝えた上で、こんなふうに語りかけたいという。
「あなたは何も悪くないし、まったく汚れてもいない」
子どもと接する仕事に就く人の性犯罪歴を確認する日本版DBSは、学校や保育所に確認を義務付けるほか、国の認定を受けた学習塾なども義務を負う。
性犯罪歴がある人は、刑の終了から最長20年採用されないなど、就業を制限される。
また、性犯罪歴がなくても、雇用主側が相談を受けて「性加害の恐れがある」と判断すれば、配置転換などの安全確保措置を取る。
参照元∶Yahoo!ニュース