パワハラ相談3年で4倍、精神疾患労災も過去最多 防止法施行後も増え続ける背景は

パワハラ防止法(改正労働施策総合推進法)が全面施行されて3年あまり。
パワハラの相談件数は増え続け、2024年度にはうつ病など精神障害の労災認定件数は過去最多の1055件となった。
パワハラは人の心を傷つけるだけでなく、場合によっては、命にかかわる事態に発展することもある。
どんな振る舞いでパワハラは起き、どのように人生を壊すのか。
また、パワハラが起きた時、どうすればよいのか。
当事者やパワハラ問題に詳しい専門家を取材した。
千葉県の湾岸地区。
瑠海さん(30代女性、仮名)は5年前、上司によるパワーハラスメントが原因で適応障害になった。
いまもその会社の近くを電車で通ると、気分が重くなることがあるという。
「その会社はもうやめたので、今は直接的な症状はありません。それでも深いところでトラウマが残っているんだなと感じます」
瑠海さんが千葉県の物流企業に転職したのは2019年春。
事務職として採用され、当初はスムーズに業務をこなしていた。
状況が変わったのは新型コロナウイルスが広がった2020年春。
通販の需要増で業務量が大幅に増えた。
そんな時に新しい上司X氏(50代男性)が配属された。
X氏は初対面で瑠海さんに「君の声、聞こえにくいね」と強い声で言った。
その時点で瑠海さんはX氏に対して苦手な感覚をもったという。
ほどなく年長の女性部員が子どもの世話で抜け、営業部門をつなぎ、X氏に報告する業務を瑠海さんが担うことになった。
突然の新規業務に戸惑いながら頑張ったが、ミスが重なった。
するとX氏は「そのくらい常識だろ」と非難。
そうした振る舞いが日常的になっていった。
「当初はネチネチと言うくらいでしたが、次第に強い言い方を隠さなくなっていきました」
悪化したのは同年秋。
部内にコロナにかかって休む人が出て、瑠海さんの業務が激増した。
「なんとかしろ」というX氏の言葉に応え、瑠海さんは連日、朝7時には出社し、20時過ぎまで仕事をした。
体力の負担だけでなく、精神的な負担も増えた。
X氏がスマートフォンのショートメッセージでも指示を送ってくるようになったからだ。
「家にいても連絡が来るようになり、X氏の名前が出ると息が苦しくなるようになりました」
12月上旬の繁忙期、瑠海さんは突如出社できなくなった。
体が重くて立ち上がれない。
なんとか会社に連絡し、X氏に事情を伝えると「え! こんな時期にか」と叱責調で驚かれた。
そこで気持ちが折れたと瑠海さんは言う。
「頑張ってきて体調を崩したのに、ねぎらいより先にとがめるようなことを言われた。悲しくて涙が出ました。友人に相談すると、このX氏の行いはパワハラなんじゃないかと指摘された。そこで、相談先をネットで調べました」
会社を休んで1週間後、心療内科を受診すると、適応障害と診断された。
休職後、千葉県の総合労働相談コーナーに連絡、労働基準監督署に労働災害として休業補償給付を請求した。
瑠海さんは、録音素材はもっていなかったが、長時間労働の記録、社内メール、そしてX氏からのメッセージなどの記録は残っていた。
そうした事実関係を証明するものを瑠海さんは労基署に提出した。
それらの記録から、瑠海さんが適応障害になった要因には、過重労働、長時間労働の押し付けがあり、それはX氏のパワハラだろうと見込まれた。
2021年春、休職を続けていた瑠海さんのもとに会社から連絡があった。
労基署から連絡があったため、会社も瑠海さんに聞き取りしたいということだった。
その聞き取りの後、X氏は他部署へ異動となった。
それがわかってから、瑠海さんも復職した。
数年後に会社はやめたが、瑠海さんはあのとき相談してよかったと語る。
「当時自分が置かれている状況をパワハラと認識していませんでした。でも、倒れて友人が指摘してくれて、初めて気づいた。自分のような無自覚の人はまだ多くいるんじゃないかと思います」
2020年6月、職場におけるパワハラ防止法(改正労働施策総合推進法)が施行された。
これにより、大企業は社内方針の明確化や相談窓口の設置、相談したことを理由とする不利益取り扱いの禁止などの措置を講じるよう義務づけられた。
中小企業も2022年4月から義務化された。
法施行後、相談しやすくなったためか、都道府県労働局へのパワハラ相談件数は増え続けている。
2020年度は1万4974件だったが、2023年度は6万53件と4倍に増加した。
適応障害やうつ病など、仕事による強いストレスが原因で発病した精神障害(疾患)の労災認定件数も増え続けている。
パワハラ防止法施行前の2019年度は509件だが、同法施行後の2024年度は1055件と約2倍に増加し、過去最多となった。
厚労省はパワハラの「6類型」として、身体的な攻撃、精神的な攻撃、人間関係からの切り離し、過大な要求、過小な要求、個の侵害を挙げ、パワハラ防止法では職場におけるパワハラを定義する「3要素」を明示した。
「3要素」とは、1)(上司と部下など)優越的な関係を背景とした言動、2)業務上必要かつ相当な範囲を超えたもの、3)労働者の就業環境が害されるもの──とされ、労基署ではこの3要素がそろって「パワハラ」と労災認定されることが多いという。
ただ、この3要素にあてはまらないケースは少なくない。
東北のある製造業企業に慎吾さん(20代、男性、仮名)が新卒入社したのは2021年4月。
研修を終えると技術開発部に配属された。
部員は7〜8人、当初は期待に満ちていたという。
雲行きが変わったのは半年後、同じ部署の上司(50代)の態度が厳しいものになっていった。
きっかけは開発に対する考え方の違いのようだった。
慎吾さんが振り返る。
「製品開発について、僕は根拠に基づいて設計しますが、その上司は『こんなのすぐできる』と感覚で考える人でした。上司の要望に合わせてこちらも挑戦しますが、やはり無理だとわかる。それを報告すると、怒りだすのです」
部署にも変化があった。
当初同じ部署にいた同期の新人は別のチームに配属され、その上司とやり取りをするのは慎吾さんだけになった。
そこで上司の怒りの矛先は慎吾さんにばかり向けられていった。
上司は協力企業との打ち合わせなど、会社以外の場でも慎吾さんを非難するようになった。
「怒鳴ることもあれば、何時間もしつこく責め続けることもある。機嫌次第でした。会社に行くのがかなりつらくなっていきました」
12月頃から腹痛、目の充血など体に異変が起きだした。
寮に帰っても、上司のことが頭にあった。
十分な睡眠がとれず、「寝たくない」という感覚もあったと慎吾さんは言う。
「考えないようにしていましたが、どうしても考えてしまう。とくに日曜は、明日が来てほしくない、寝たくないという感覚になっていました」
慎吾さんは誰にも相談せず、我慢を重ねて日々を過ごしていたが、翌年4月、大きな異変が起きた。
ある日の午後、寮にいた慎吾さんは部屋の洗面台のところで倒れているのを同僚に発見され、救急車で運ばれた。
慎吾さんは市販薬を大量に飲んでいた。
母親の美里さん(仮名)は会社からの電話で「慎吾さんが倒れた」と聞き、150キロ近く離れた家から病院へと駆けつけた。
当初面会謝絶で会えなかったが、医師から「会社でひどいことをされたようです」と聞いた。
美里さんが言葉を紡ぎ出すように言う。
「会えた時、慎吾は『ごめんなさい、ごめんなさい』としきりに言っていました。同期の子に仕事が行ってしまうので、申し訳ないと。そして『苦しかった』『あいつに思い知らせたかった』とも。それを聞いて、もう大丈夫だよ、一緒に戦うからねと慎吾に言いました」
慎吾さんの体調が回復していくなか、彼がどんな状況で過ごしていたのかがわかっていった。
慎吾さんの両親は会社と話し合いをするとともに、労基署にも話を持ち込んだ。
上司がしていたことはパワハラだと確信したためだ。
面談すると、会社側は慎吾さんがパワハラを受けていたことを認め、謝罪した。
また、今後は相談窓口を設ける、当該上司を異動させると応じた。
だが、当該上司は会社からの措置を受ける前に「自身も病んだ」と称して自主的にやめた。
彼からの謝罪はなかった。
労基署は慎吾さんのケースは「極めて悪質だが」、3要素のうち「『就業環境が害される』という部分が弱く」、法に基づくパワハラとは認定しなかった。
ただ、母の美里さんは同労基署にも不信感があったと言う。
「こちらは労働問題に詳しくないのに、最初から専門的な論点を語ったり、『会社はパワハラを認めないものですよ』と消極的なことを言ったりして、労基署の姿勢にも疑問がありました」
こうして一連の決着がつくなかで、慎吾さんは会社に復帰した。
慎吾さんは今、当時のことを振り返り、後悔もあると話す。
「あの苦しかった頃、親でも誰でも、他の人に少しでも相談しておけばよかったなと……。誰か頼れる人に話をしていたら、ちょっと違ったのかなと思います」
パワハラなど労働問題に詳しい弁護士の笹山尚人さん(東京法律事務所)は、パワハラ問題で3要素を満たさないことは珍しくないと話す。
「パワハラは、ある1回ではなく、何週、何カ月にもわたって小さい行為が積み重なって起きています。続いているところに悪意があり、3要素を明確に証明できないことはよくあります」
現実との乖離もある。
パワハラ防止法では、会社に相談窓口の設置を義務づけているが、小さい会社の場合、窓口を設置できないばかりか、経営陣そのものがパワハラ当事者の場合もある。
そういう場合は、各都道府県の労働局や労働委員会など外部の機関に相談すべきと笹山さんは言う。
同時に、対策をとっておくことが望ましいと言い添える。
「パワハラの疑いがあったら、まず事実を記録しておく。メールやLINEなどの保存、最近はスマホで簡単に音声の録音もできます。パワハラ問題で証拠があることは非常に有効です。健康状態に不安を覚えたら、心療内科などに行っておくことも大事です」
パワハラ防止法が施行されてもパワハラは増え続けている。
それはまだ法として不十分なためと笹山さんは指摘する。
「同法は『違法』と書いていないのです。国際労働機関(ILO)の190号条約は仕事における暴力とハラスメントの撤廃を定めていますが、日本はこの190号条約を批准していない。190号条約に基づいて、パワハラは違法行為として禁じなければいけない。まず、そこからでしょう」
ILO190号条約は、仕事における暴力とハラスメントは「人権の侵害」として容認できないとし、人権の問題としている。
防止法の施行から5年、今後、日本社会はパワハラを減らしていくことができるだろうか。
参照元:Yahoo!ニュース