硫黄島からの手紙、検閲かいくぐり家族へ 遺族保管の17通、初公開

硫黄島の外観を撮影した写真

太平洋戦争の激戦地、硫黄島(東京都小笠原村)で戦死した兵士が内地の家族に送ったはがきと手紙計17通を、京都府宇治市の遺族が80年以上、大切に保管している。

激戦地からの私信がこれほど多く残るのは珍しく、戦史研究の専門家は「兵士として最前線に送られた庶民の心情が伝わってくる、一級史料だ」と話している。

はがきを書いたのは、佐々木巍(たかし)さん。

1913年、東京生まれ。

青山学院大神学部を卒業し牧師となった。

38年、陸軍に徴兵された。

翌年、ノモンハン事件で右胸に負傷したが命は取り留めた。

42年5月に満期除隊。

横浜市の教会で牧師を務め、29歳で愛さん(当時33歳)と結婚した。

44年6月9日、長女の寛子さんが誕生。

9日後の18日、巍さんに「赤紙」と呼ばれる召集令状が届き、2日後に再び出征した。

所属していた混成第2旅団独立速射砲第8大隊は、同年6月30日、硫黄島に渡った。

軍事郵便で送られたのは、16通のはがきと封書1通。

はがきは縦14センチ、横9・2センチで、コメ粒より小さな文字で1000字以上が書かれているものもある。

「寛の写真が良くとれたものだ。(中略)病気もせずすくすく育っていることを感謝しています」(同年9月21日着)、「寛に手がかかるし(中略)教会も忙しさに身体も疲労する事と思う過労に渡らぬように充分に気をつける様に」(10月6日着)、「約百日大分大きく可愛くなったね」(11月9日着)などと、夫不在の家を支える妻への感謝と、生後間もなく別れた娘への愛情をつづっている。

軍事郵便で上官の検閲を受けるため、巍さんは自分の居場所や現地での状況など詳細を書くことはできなかった。

また渡島したころから、米軍による空襲や艦砲射撃が激しくなっていった。

戦史研究の第一人者で「日本軍兵士」などの著書がある吉田裕・一橋大名誉教授は「軍務の合間、灯火管制(敵の空襲を避けるために夜間に明かりを控えること)の下で書いたのだろう。これほどびっしり書いているものは見たことがない」と驚く。

同年7月30日に出され、8月15日に届いた「第3信」には、「伊藤氏、大塚、島津兄によろしく」と書かれている。

巍さんの妹、節子さんが戦後50年の95年に書いたと思われる文書で「兄は、自分の行き先は人の名前の頭文字をつなげたら分かると言って出た。皆で硫黄島と判読した」などと回顧している。

吉田さんは「限られた機会を最大限使って、家族に少しでも重要なことを伝えようと努力していたことが分かる」と話す。

一家は戦時中、愛さんの出身地、愛媛に疎開。

寛子さんは戦後、進学を機に京都に移り住んだ。

今年、81歳となった寛子さんは、母から受け継いだ「硫黄島からのはがき」を、ずっと読むことができなかった。

「つらかったから」。

それでも戦後80年の今年、記者に見せることを思い立った。

「二度と戦ってはならない。父からのはがきを記事にしていただくことで、少しでも(平和の)役に立てば」と話している。

参照元:Yahoo!ニュース