24歳で逝った娘 一家は福祉の道へ 重度障がいも〝いのちの軌跡〟が地域変える/兵庫・丹波篠山市

命をイメージした写真

兵庫県丹波篠山市内で障がい者福祉事業に取り組む一般社団法人「みずほの家」が今年、設立から10周年を迎えた。

記念式典には、同法人の施設を利用する障がい者や家族、関係者ら約300人が出席。

みんなで節目の年を祝った。

会場にあふれた人々の笑顔とつながりの輪を生み出したのは、もとをたどれば一人の女性に行きつく。

山中瑞穂さん。

同市北新町に生き、15年前、24歳の若さで逝った彼女がいなければ、この法人も、福祉事業も、人々のつながりも、何一つ生まれなかった。

彼女はこのまちに何を残したのか。

家族の証言をもとに、そのいのちの軌跡をたどる。

瑞穂さんは体を自由に動かせず、言葉もしゃべれない重度の障がいがあったが、生まれた時は、「おぎゃあ」と泣き、母乳も飲み、いたって普通の赤ちゃんだった。

生後40日ほどたったころ微熱が出た。

家族が「風邪かな?」と思っていたところ、全身がけいれんし始めた。

父の信彦さん(69)が当時を振り返る。

「病院に搬送し、お医者さんに廊下の隅っこに呼ばれて。『お母さんには言いにくいが、娘さんは命が危ない。助かったとしても超重度の障がい者になります』と言われた。当時は障がいと言われても全くピンとこず、頭が真っ白になって。『命は助けてください』と言ったことは覚えている」

瑞穂さんを苦しめていたのは、ヘルペスウイルスが脳の中に侵入して炎症を起こす「ヘルペス脳炎」。

重度の脳性まひとなり、さまざまな機能が壊された。

ヤマと言われた数日を乗り越え、「ふにゃあ」と泣いて見せた瑞穂さんは、何とか一命を取り留めた。

同時に24時間介護なしでは生きられない生活の始まりでもあった。

入院はおよそ1年にも及んだ。

退院後も嚥下が難しく、しょっちゅうむせる。

脳の炎症が原因で、体が勝手にエビのように反り返る。

泣きじゃくる。

抱っこしても寝ない。

薬をうまく使えば寝てくれる。

だが、1時間おきに起きる。

舌をかまないように、ずっと気にしないといけない。

世話する母の泰子さん(69)は、心身ともにボロボロになっていった。

自分も娘も寝られない。

疲れ果てて朝を迎え、「ああ、きょうも生きていてくれた」と思う。そんな生活が続く。

健常者ならある程度大きくなれば夜泣きも終わるが、瑞穂さんはいつまで続くか見通しが立たない。

限界を迎えた泰子さんは、ふらりと娘を連れて家を出ることもあった。

「瑞穂も私もしんどい。一緒に楽になろうと思ったこともありました」

倒れそうな泰子さんの心のつっかえ棒になっていたのが、瑞穂さんの二つ上と五つ上の兄、信人さん(44)と祥平さん(41)。

入退院を繰り返していた時期には、幼い二人を親戚や知人に預けることも多く、迎えに行くと、「帰りたくない」と泣かれたこともあった。

それでも、みんな大切なわが子。

「瑞穂だけでなく、二人の世話も私が寝込んだらこなせない。大変だと思う暇もなかったけど、それが逆に助けになっていた」

知人から、「まずはお兄ちゃんたちのことをちゃんと見てあげなさい」と助言を受け、兄たちの少年野球や参観日に瑞穂さんを連れて出かけるようになった。

「もちろん兄たちのことを見たかったし、周りの人に、『こういう妹がいる』と分かってほしかった。不思議と瑞穂のことを隠そうという気持ちは全然なかった」と泰子さん。

まだ福祉制度が充実してなかった時代、友人たちは自然と「瑞穂ちゃんは見ておくから、買い物行っておいで」「病院一緒に行こうか?」と支えてくれるようになった。

成長し、よく笑うようになった瑞穂さんは、小学校に上がる年齢になった。

当時、篠山小学校(同市北新町)の中に篠山養護学校が併設されていた。

「ずっと家にいても見るのは同じ顔ばかり。学校に行って、家族以外の人と関わり、社会に触れさせてやりたい。そうすることで命が延びるのではないか」

親はそう思ったが、医療的なケアも必要な瑞穂さんの受け入れはハードルが高かった。

諦めかけた時、校長判断で、「お母さんも一緒なら」と母子通学を条件に入学を許可してもらえた。

ここから瑞穂さんを取り巻く世界が変わる。

家族や医師だけとの関わりから、同級生や友だち、先生、地域の人との触れ合いが色鮮やかに広がっていった。

「おはよう」「バイバイ」―。小さな小さな触れ合いは、少しずつ変化を生んでいく。

「普通、瑞穂の姿を見たら『えっ』となると思った。でも、子どもたちは本当に普通に接してくれた」(泰子さん)

後に養護学校は現在の場所(同市沢田)に移ったが、小学校との交流は続いていた。

運動会。

当然、瑞穂さんは走れない。

「私がおんぶして走ります」

同じ体操服を着て、同じ白いはちまきを巻いた女の子が、瑞穂さんを背にグラウンドを駆けてくれた。

その優しさに家族は涙が止まらなかった。

瑞穂さんは、篠山養護学校に通い、多くの人との触れ合いを通して世界を広げていった。

心身に重い障がいがあっても喜怒哀楽はしっかりとある。

何よりそのチャーミングな笑顔が特徴。

彼女が笑えば周囲が明るくなり、誰からも好かれる存在になっていった。

成長とともに少し体力も付いた。

心も体もくたくたになり、泣きに泣いた母、泰子さんも、ほんの少しだけ気を休める瞬間ができてきた。

一方、当時、全日空の社員で伊丹空港に通勤していた父、信彦さん。

「家のことはお母さん(妻)に任せきり。仕事に行っている間はいろんなことを忘れられたし、飲みにも行った。まずい夫だった」と首を垂れる。

周囲の勧めや、「さすがにこのままではいけない」と感じたこともあって退職を決意。

家族との時間を増やすため、娘の名を冠した旅行社「みずほトラベル」を立ち上げ、地元に腰を据えた。

その後、信彦さんは、篠山養護学校のPTA会長に就任。

わが子だけでなく、同じように障がいのある子どもたちとの関わりが増えていった。

そんな折、「小規模作業所という制度がある。養護学校を卒業した後の子どもたちの居場所を作ってほしい」と相談を持ちかけられた。

娘の将来にも関わること。

信彦さんは当時のPTAのメンバーや元教職員らと共に2003年3月、小規模作業所「紙ふうせん」を設立し、翌年にはNPO法人「いぬいふくし村」を立ち上げた。

敷地内には「コミュニティカフェ みーつけた」もオープン。

障がいのある人が集い、働ける場を増やしていった。

瑞穂さんは養護学校を卒業後、父たちが作り上げた紙ふうせんに通うようになった。

作業所などがあるのは、丹波篠山市の中心市街地の一角。

「あの頃、知人から、『山中君は一生懸命やっているけど、障がい者は増える一方なんじゃないか』と言われた」という信彦さん。「その言葉が本当にうれしかった。つまり、障がいのある人たちが地域に出始め、みんなの目に触れる機会が増えたということだから」

雨のまちで傘の差し方が分からない障がい者に、地域住民が傘を差してくれる。

そんな何げないけれど、温かい景色がまちに広がり始めた。

障がいがあっても家の外に出よう。

地域の人に障がい者を理解してもらうには、本を読むより、実際に触れ合ってもらうことが一番。

父と母は、そんな考えを瑞穂さんと一緒に実践していった。

学校はもちろん、選挙があれば投票に行き、飛行機に乗って沖縄にも行った。

NPOの設立などがきっかけで、信彦さんは各地から講演を依頼されるようになった。

娘と一緒に登壇することもしばしば。

二人三脚で障がいのことや生活の大変さ、周囲の支えがあって地域に出られることなど、障がい福祉への思いを語り歩く。

年間約30本もの講演をこなす年もあった。

ある講演終了後の会場で、参加者の男性が瑞穂さんの手にお金を握らせた。

「そんな同情みたいなことしなくても」というささやき声が聞こえる中、男性はきっぱりこう言ったという。

「わしは瑞穂ちゃんに感動したんや。だからこれはこの子への講師料や」

別の会場では、中央で話す信彦さんに客席から声が飛んだ。

「瑞穂ちゃんが主役やろ」―。

娘が舞台中央に、父は隅っこで話すことになった。

信彦さんは、「あれはすごかった」とうれしそうに笑う。

篠山養護学校では自身の世界を広げ、父との講演活動では、社会に自身のことや障がい福祉のことを広げていった。

両親、特に泰子さんにとってはその存在が心のつっかえ棒にもなっていた、瑞穂さんの2人の兄。

本人たちは妹のことをどう見ていたのか。

「実家は篠山城の近く。車いすに乗った瑞穂と散歩をしていたら、観光客の人に、『大変やなあ』『頑張ってね』と言われて。その時に初めて、『妹は頑張らないといけない子なのか』と感じたことを鮮明に覚えています」

そう振り返るのは長男、信人さん。

きょうだいの中でいち早く多感な時期を迎えていたがゆえに、複雑な思いを抱えることもあった。

「瑞穂を煩わしいと思ったことはなかったけれど、思春期には友だちに瑞穂のことを言いづらい時期もあったし、『障がいがなかったらよかったのに』と思うこともあった。そしたら、両親はもっと自由で、妹とも、もっと遊べたのにって」

一方、次男の祥平さんは、「特に何も思わなかった」とけろり。

「友だちもかわいがってくれたし、家に遊びに来た時には瑞穂と腕相撲をしていたこともあった。それが当たり前だったから、障がいがあるとかないとか考えなかった」と笑い、信人さんも、「祥平はそうやったなあ」とほほ笑む。

ただ、二人は、「母が大変だとは、ずっと思っていた。父はほとんど何も言わなかったけれど、しんどい母を見るのがつらかったやろうなと思う」とうなずき合う。

瑞穂さんのことを思い出す中で、二人には共通の願いがあった。

「一度でいいから、『お兄ちゃん』と呼んでほしかったかな」。

その願いはかなうことはなかった。

その日、瑞穂さんは、デイサービスからの帰路、母の泰子さんが運転する車の中で、いつも以上にしんどそうな顔をしていた。

2009年7月のことだ。

どんどん青ざめていき、自宅に着いた時には真っ青になっていた。

「誤嚥」―。

もともと力が弱かった気管に物が詰まり、呼吸ができなくなっていた。

泰子さんはパニックに陥った。

血の気が引き、全身が震え、電話の119番が押せない。

偶然、近所の人が異変に気づき、救急車を呼んでくれた。

外に出ておろおろしながら救急車を待つ。

時間が過ぎるのが異常に遅く感じる。

その時、父、信彦さんも帰ってきて、「これは待てない」と判断。

自家用車で兵庫医科大学篠山病院(現・ささやま医療センター)に駆け込んだ。

玄関に入るなり、泰子さんは叫んだ。

「助けてください!」

すぐに医師や多くの看護師が駆け付け、交代で40―50分もの間、人工呼吸を続けてくれた。

その後、三田市民病院(兵庫県三田市)に搬送することになった。

たまたま兵庫医大に救急担当の医師がいたという奇跡や、三田市民の医師らの懸命の処置もあって、瑞穂さんはなんとか一命を取り留めた。

わずかな隙間に入り込んできた死の影。

信彦さんと泰子さんは、「もし、この時に瑞穂が亡くなっていたら、後悔の念で気持ちの整理はできなかったし、その後の取り組みもなかったと思う。2つの病院がつないでくださった“命のリレー”は、本当にありがたかった」と感謝する。

命は取り留めたものの意識はなく、予断は許さない。

「いつアウトになってもおかしくない状況」(泰子さん)のまま、入院生活が始まった。

病室には多くの人が駆け付け、懸命に生きる姿にエールを送り続けた。

8月、瑞穂さんは病室で24歳の誕生日を迎えた。

状態が好転することはなく、瑞穂さんは少しずつ弱っていった。

ある日、泰子さんは、娘をもう一度、抱っこしたいと思った。

看護師に相談すると、「先生には内緒ね」と手伝ってくれた。

介護の中で何度も抱いてきた体は細く、軽く、たくさんの管もつながっている。

それでも24年間、抱き続けてきた娘とその命を、また抱くことができた。

うれしさと同時に、「これが最後かもしれない」と思うと、涙が止まらなかった。

この頃、瑞穂さんの病室に足しげく通っていたのが、シンガーソングライターの石田裕之さん(44)=神戸市。

父の郷里、丹波篠山でコンサートを開いたことがきっかけで山中家とつながり、音楽好きだった瑞穂さんは石田さんを見るたびに満面の笑顔を浮かべていた。

泰子さんともどもファンだったのかもしれない。

ある日、信彦さんは病室にやってきた石田さんに一枚の紙を手渡した。

瑞穂さんの気持ちを想像してしたためた詩だった。

「石田君、これを歌にしてくれへんか?」

―私は、お母さんが好き あなたに抱かれて聴いた、いのちの歌 私もたくさんの歌を作ってもらったよ―

―私は、お母さんが好き あなたの温もりの中、生きてきた 私のいのちを支えてくれて、ありがとう―

タイトルは、「お母さんにこの歌を贈ります」。

信彦さんと瑞穂さんの共作にした。

メロディーを付け、後に瑞穂さんとの別れの際にもこの曲を歌った石田さん。

「瑞穂さんがいなかったら、今あるいろんな人とのつながりは生まれなかった。それくらい本当に大きな存在だった」。

まぶたの裏にあの笑顔を思い出す。

入院から3カ月が過ぎた11月1日。

瑞穂さんのいのちの灯が消えようとしていた。

「ありがとう」「よく頑張ったな」。

家族みんなで手を握ったり、さすったりした。

寂しさはあったが、「駄目か」と思った日から、ここまで命を長らえてくれたことに感謝した。

瑞穂さんは家族の手を、きゅうと握り返したという。

そして、最期に一筋、涙を流した。

信彦さんは、「握り返したことも、流した涙も、理学的にそういうものなのかもしれない。でも、私たちには、瑞穂が『ありがとう』と言ってくれているように感じました」

体が不自由だった瑞穂さん。

ずっとむせていた瑞穂さん。

かぼちゃが好きで、何より家族のことが大好きな瑞穂さん。

そして、誰からも愛された瑞穂さん。

彼女は24年の生涯に幕を下ろした。

その墓碑には、父娘が共に作ったあの歌の最後の部分が刻んである。

―家族はあるものではなく 作るものだよね 人はだれもつながりの中で生きている 家族のきずなっていい言葉だよね またひとつ屋根の下に暮らそうね 私はいつだってそばにいるからね 心はいつだって 手をつないでいるよ―

瑞穂さんが天に昇ってから5年後の2015年、家族で過ごした丹波篠山市北新町の自宅には、障がいのある人たちの笑顔があふれていた。

「障がいのある人も、その家族もくつろげる時間をつくりたい。自分たちも大変さを経験しているから、同じ思いを持っている人を応援したい」

山中家の人たちは、そんな思いを込めて障がい者福祉事業を始めた。

施設の名前は、「みずほの家」。

瑞穂さんの父、信彦さんと母、泰子さんらは2015年、障がい者福祉事業をスタートした。

短期入所施設に始まり、利用者や家族のニーズに応える形で、グループホームやショートステイも設置するなど事業を拡大。

家族と数人の仲間で始めた取り組みは、今や約70人のスタッフを抱え、利用者は県内20市町からやって来る。

その一番の特徴は、瑞穂さんと同じ重度の障がいのある人を優先して受け入れていることだ。

順風満帆ではなかった。

瑞穂さんと暮らしたとはいえ、きちんとした介護や福祉の知識はほぼない。

家族の「面倒を見る」のと、他人を受け入れ、サービスを提供する「事業」では、何もかもが違う。

旅行業を辞め、両親と共に介護の世界に足を踏み入れた次男、祥平さんは、「自分たちにとって介護や障がい者は瑞穂とその周囲が全て。だから、障がいについて知っているようで知らなかった。『瑞穂と暮らした自分たちは特別』と思っていたら全然そんなことはなくて。何度も心が折れそうなりましたね」と振り返る。

〝寄り添う〟という思いだけで動き出したが、事業である以上、「経営」しなければならない。

それがうまくいかなければ、思いも実現できない。

そこを担ったのが長男、信人さん。

自動車販売業からの転身で、経営も学び直し、屋台骨を整えた。

「きちんとすれば事業として成り立つ。そして、こんなに『ありがとう』と言ってもらえる仕事はない。親御さんから『20年ぶりに夫婦で鍋をつつけた』という言葉をもらった時は、うちの両親とかぶるものがあった。仕事だけれど、お金じゃない部分もある」

瑞穂さんが逝った時、「二人になってしもたな」と話した兄弟は今、法人の代表理事と専務理事。

「妹にもっとお兄ちゃんらしいことをしてあげたかった。今、いろんな人のお兄ちゃんになれるように頑張っているんだと思う」―。

一般社団法人「みずほの家」は、2024年11月に瑞穂さんの召天15周年の集いを、今年3月には事業スタート10周年の記念式典を開いた。

10周年記念式典の中では事業を支えてくれた職員、施設を明るくしてくれる利用者らに感謝状が贈られる場面があった。

その最後の受賞者としてアナウンスされたのは泰子さん。

壇上で信彦さんが迎えた。

「感謝状はないけれど、自分の口で伝えます」と恥ずかしそうにする信彦さん。

「『短期入所施設を作りたい』『兵庫県中から泊まりに来てほしい』と言った時、お母さんは快く受け入れてくれました。今、この場所に立てているのはお母さんのおかげです。本当にありがとう」

涙を流しながら抱擁する二人を、スクリーンに映し出された笑顔の瑞穂さんが見守る。

「お父さん、お母さん」―。

そんな声が聞こえてきそうな笑顔だった。

言葉を話せず、字も書けなかった瑞穂さんが、どんな気持ちでいたかは誰にも分からない。

ただ、両親は瑞穂さんの夢を見ないという。

重い障がいがあった。

命の危機もあった。

でも、学校に通い、友だちの協力で運動会にも参加した。

旅行に行き、音楽も楽しみ、多くの人に囲まれて、いろんな経験をした。

講師料をもらったことだってある。

「家族が亡くなった時、残った人が後悔していたら夢に見ると聞く。でも、自分たちなりに一生懸命、育ててきたし、いろんな人の助けもあって後悔はない。瑞穂も喜んでくれていると思うから、夢に見ないんじゃないかな」(信彦さん)

そして、「だから寂しくはない。でも、ずっと愛おしい」。最愛の娘への思いは今も変わらない。

父の行動力、母の包容力、長男の堅実さ、次男の優しさ―。

それらがあったからこそ、事業としての介護が成り立ったことは間違いない。

しかし、瑞穂さんがいなければ、一家が福祉に携わることはなかったことも、また事実だ。

信彦さんが仲間と共に始め、障がいがある人もない人も音楽を楽しむ「兵庫・丹波篠山 国際とっておきの音楽祭」は現在、全国で開かれている同音楽祭の中で3番目の規模にまで成長した。

瑞穂さんが好きだった音楽の祭典。

一人の女性の存在が、家族を変え、その先に地域社会まで変えていった、と言っても過言ではない。

取材の最後、失礼なことだとわかっていながら、どうしても聞いてみたかったことがあった。

「いつか、瑞穂さんに出会うことがあったらどんなことを話しますか」

信彦さんは、少し照れくさそうな顔を浮かべて言った。

「お父さんのこと、覚えてる? 昔はお母さんばかりに任せちゃってごめんやったね。でも、あれからお父さん、いろいろ頑張ったよ。瑞穂も喜んでくれるかな?」

泰子さんは目に涙をため、「なんて言おう」と何度も言った後、絞り出すように言葉を紡いだ。

「元気やった? また一緒に暮らそうね」

記者は瑞穂さんのいのちの軌跡を描くことを通して、人はみんなが特別で、誰しもが誰かに影響を与えているということ、そして、その歯車がかみ合ったときには、社会に大きな変化をもたらすことを記したかった。

そんな可能性を秘めたいのちは大切。

瑞穂さん、あなたがいたから、記者もそう思えました。

参照元:Yahoo!ニュース