「なんで僕は生きてるの?」スピードを出した車が急に来て 小2で暗転した人生 画家として届けるのは“生きる勇気”

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小学校2年生まで活発だった男の子が、ある日釣りに行こうと道路に出たところ、スピードを出して走っていた1台の車によって運命を変えられた。

免許取り立てのドライバーだった。

そこからの入院生活は2年に及んだ。

動かない体、希望の見えない絶望の毎日。

再び前を向くことができたのは、同級生の支え、そして口で絵を描くことだった。

頸髄損傷という大けがを負いながらも、絵を通じて、生きる勇気を届ける26歳の画家・田中潤也さんに迫った。

田中さんは1999年1月、愛媛県に生まれた。

幼い時から活発な子どもで、「結構やんちゃでした。外で遊ぶことが多くて、友達と自転車で地元を駆け回っていました」と元気いっぱいだった。

地元で盛んだったことから、6歳から剣道を始めた。

「親に連れていってもらって体験をしてから習ってみたいと思いました。精神的にも鍛えられたと思うし、人として成長できたという実感を覚えました」。

めきめきと力をつけた。

小学校では音楽や生活、英語の授業に熱中した。

当時の夢は、「お相撲さんになりたい。もう1個あって、電車の車掌さんになりたいという憧れがありました」。

他の子ども同様、希望にあふれた未来を描いていた。

暗転したのは、2年生の時だった。

忘れもしない4月30日の夕方。

祖父の家にいた田中さんは、釣りに行こうと、海の様子を確認するために玄関を出た。

「道を渡っていたら、急に車にひかれました」

海は道路を一本渡った先にあった。

「見通しは悪くはないんですけど、ドライブコースと言われている道でした」

左側からスピードを上げて走っていた1台の車が現れ、田中さんに衝突する。

一般道路を80~100キロで飛ばしていたのは、免許を取り立ての若者だった。

「振り向いたら目の前まで車が接近していて、逃げようにも逃げられなかったですね」

田中さんの小柄な体は衝撃音とともに、10メートル近く吹き飛ばされた。

一瞬の出来事だった。

「心臓も止まって意識不明の状態になりました」

近くにいた父がすぐに駆けつけた。

看護師の資格を取ったばかりで、初めて心臓マッサージを行う相手が息子になった。

病院までは1時間はあろうかという距離だったが、当時ドクターヘリはなく、田中さんは救急車で搬送された。

意識が戻ったのは入院して約2週間後だった。

すぐに体が動かないことに気づいた。

「たくさんの機械やチューブでつながれて、ここはどこだろう? と不安な気持ちになりました。それからお母さんと主治医の先生が入ってきて、この人何言っているの? という感じで現実を信じることもできませんでした」

言葉をしゃべろうとしたが、出なかった。

喉を切開し、ICU(集中治療室)で人工呼吸器につながれていた。

診断名は、頸髄損傷。

両手、両足がまひし、首から下が動かない状態になった。

パニックになって、先生の説明はよく覚えていない。

「(状況に)衝撃を受けすぎて、言葉を覚えていないです。体が動かなくなった現状に気づいて、苦しくて。時間を戻してほしいと思いました」

麻酔が切れると、痛みも強くなってきた。

これから自分はどうなるのか。

体は治るのか。

人生を悲観し、絶望と恐怖が体を襲った。

1か月半後、ICUから一般病棟に移った。

言葉を話せるようになった時は、「すごくうれしかった」。

文字を書くことができない中で、自分の意思を伝える手段を取り戻せた安堵(あんど)がこみ上げた。

しかし、そこからのリハビリは長く、出口の見えないものになった。

当時は人工呼吸器をつけて自宅に帰ることはできなかった。

効果的な治療法があるわけでもなく、現状維持が精いっぱい。

その繰り返しの日々に、田中さんは、なぜ生きているのか自問自答するようになった。

「今すぐにでも退院したいという気持ちが芽生えて、なんとかならないかってずっと考えていました。なんで僕は生きてるの? 早く死にたいって思っていました。でも、誰かに言ったらその人も嫌な気持ち、つらい気持ちになる。だから言わなかった。声を殺して夜中じゅう、泣いた時もありました」

本音は親にも言えず、病室で1人になると重苦しい空気の下でふさぎ込んだ。

月日は過ぎ、2年がたった。

4年生になった田中さんは、自宅近くの病院に転院していた。

そして、再び病院から学校に通うことが許可された。

車いすで、人工呼吸器はつけたまま。

何もかもが変わってしまった姿を見て、同級生たちは、どう思うのだろうか。

学校に戻れるうれしさの一方で、心配も募ったが、それは杞憂になった。

「友達たちが僕の周りに寄ってきてくれて、よく頑張ったね、私たちがこれから助けるから何でも言ってね、と温かい言葉をかけてくれたのは覚えています。友達たちが優しかったんですよね。こういう友達を持ってすごくうれしかった」

給食の時間は母や訪問看護師がサポート。

マラソン大会は電動車いすで参加した。

さらに、退院して自宅から通学できるようになった。

「週末は友達が家に来てくれて、その時間がすごく幸せでした。僕は事故に遭ってから、当たり前のことが当たり前じゃないという考えになった。友達とお茶を飲んだり、ゲームをしたり、当たり前の時間がとにかく幸せでした」

田中さんは次第に、笑顔が増えるようになっていった。

そして5年生の時、転機が訪れる。

県の美術館で行われた絵画展に足を運ぶと、1人の画家に目を奪われた。

高校2年生の時、水泳の練習中に頚椎を損傷し、首から下半身がまひする障がいを負った牧野文幸さん(故人)が、口で筆をくわえながらの実演で見事な絵を描き上げていた。

「たまたまお話させてもらって、もしよかったらこっちのほうに来てみないかと声がけいただきました」

同じやり方で文字や絵を描いていた田中さんは、画家という道に興味を持つ。

決断したのは、高校1年生の時だ。

社会では誹謗中傷や子どもの自殺が問題化し、テレビのニュースで取り上げていた。

「そういう人たちが僕の絵を見てくれたら、癒しになってくれたらと思って画家の道を選びました」。

自身も紆余曲折を経て、さまざまな助けがあって、ここまで歩んできた。

被害者や追い込まれた人たちを少しでも元気づけたい、という思いが田中さんの背中を押した。

牧野さんと同じ口と足で描く芸術家協会に所属し、これまで100枚の絵を描いてきた。

「うまくなっているという実感はあります」と笑顔も見せる。

3年前には兵庫で印象的な出来事もあった。

たまたま田中さんの絵を見た女性から「自殺を考えていたけど、やめようという気持ちになった」と告げられた。

「そういう人に勇気を与えられた。命を救えた喜びがあった」。

思いがけない出会いに驚き、感謝した。

田中さんは6月22日に開幕した絵画展『口と足で描いた絵~HEARTありがとう~』(28日まで、東京交通会館B1ゴールドサロン)に「きみといつまでも」という名の絵を出展している。

「愛媛にナオミキャンベルという有名な派手な女性の方がいる。その人がかわいがられている猫を描かせていただいた。ずっと一緒にいてね、という意味を込めました」。

27日には会場を訪れ、実演も予定している。

体の自由を失っても、絵画を通じて、見る者の心を動かしている田中さん。

今後は海外で、同じ境遇にある画家たちと交流することを目標にしている。

「台湾に水墨画で描くアーティストがいる。その人の生い立ちを聞きに行ったり、この絵はどのようなアイデアで生まれたか、直接聞いてみたいという夢があります」

大好きな音楽とコラボし、世界中で巡回展などを開きたいという願望もある。 

「貧しい国の子どもたちに、大丈夫だよっていうのを伝えたいですね。絵を描きたくても描けないかもしれないので、そういう場所を提供してあげたいです」

絵の持つ力は無限大。

国境を越えた活躍を田中さん自身も楽しみにしている。

参照元:Yahoo!ニュース