「こんなにしんどいことは、やりたくねえ」――借金28億円を完済、コンサートは4700回 さだまさし73歳のあきらめない人生

さだまさし(73)は人生を振り返り、「こんなにしんどいことは、やりたくねえ」とつぶやく。
波瀾万丈の道のりだった。
ヴァイオリンの天才少年として期待され、13歳で単身上京。
家業が失敗し、生活に苦労しながら学生生活を送るも、ヴァイオリニストの道をあきらめる。
紆余曲折を経てシンガー・ソングライターとして活躍し始めると、映画製作で28億円もの借金を背負った。
コンサートを重ね、30年かけて完済。
まもなくソロ公演の回数は4700回を迎える。
挫折をどう乗り越えてきたのか。
「借金を返済したら、引退しようと思っていました。30代、40代と厳しいスケジュールをこなしてきたので、これが続くとも思えなかったし。返済して責任を果たしたら、いつやめてもいいだろう、と。だけど、東日本大震災が起きたんです。その時に、自分の人生を自分で制御するのは傲慢だと思ってね。自由に音楽ができる環境にあって、何を根拠にやめるのか。お客様が一切来なくなったり、声が全く出なくなったりする日が来たら、消えていくもの。消えるまで、やるべきじゃない?って。それからは、やめるということは考えないですね」
完済したのは、2010年、58歳の時だった。
翌年、東日本大震災の被災地へ足を運び、以降は被災地支援や基金の設立などに尽力している。
70代の今も、コンサートに励む日々は変わらない。
「最初は、お客さんも自分も楽しめたらいいと思っていた。途中で、お客さんが楽しむことを優先させなければ、とささやかなプロ意識が芽生える。次の段階で、でも俺も楽しまなくちゃな、と思う。で、今はどこにいるかというと、俺が楽しかったら絶対お客さんも楽しんでくれる、そんな場所にたどり着いたなあ。すばらしいお客さんが育っちゃった」
1952年、長崎県長崎市に生まれた。
材木屋だった父は、山に入って木を刈るのが日常。
母は音楽好きで、子どもの手を引き、長崎市内を歌いながら歩いたという。
3歳の頃、さだはヴァイオリンを始めた。
「気づいたら弾いていましたんで、ヴァイオリンを弾いていない自分の記憶がほとんどないんですね。僕が弾きたいと言ったと母は主張するんだけど、うーん。ヴァイオリンって、一音一音、自分で作って、それを音色に変えなきゃいけないんですよ。毎日、反復練習しかない。その修業を3歳からさせられたことは、僕の人間性に大きな関わりがあると思いますね」
始めた当初は裕福だったが、さだが5歳の時、諫早の大水害で父が材木をすべて失う。
「12部屋もあった家から、3間くらいしかない家に移り住みました。家の中を走り回っていた子が、走りようがない家に来たわけですから。父の没落に、子どもとしてもプライドが傷つきましたよね。小学3年生の頃、お月謝を払うのがしんどくなって、母がヴァイオリンをやめさせたことがあるんです。そうしたら先生が『お金のことは心配しなくていいから、この子には弾かせなさい』と母を説得したらしいんですね」
小学5年、6年で続けてコンクールに入賞。
ヴァイオリン修業のため、中学1年で上京することになる。
「両親の期待を裏切りたくなかった。『あんた、東京行くね?』と母に聞かれた時に、『うん、行くよ』と言わないとがっかりするかな、みたいな感覚で。長崎を出る急行列車は今でも覚えています。同級生や親類が見送りに来てくれて。線路際の道路では、『佐田くんがんばれ』と書いた大きな紙をみんなが持っていた。すごい怖かったね、こんなに期待されてるって。こっそり一人、トイレで嗚咽しましたけどね」
23時間57分、急行列車に揺られ、はるばる東京へ。
学校に通いながらレッスンを受ける日々が始まった。
下宿生活を経て、14歳からは一人暮らし。
仕送りは十分ではなかった。
「当時ね、コーラの空き瓶を1本10円で引き取ってくれたんですよ。友達にコーラを買ってきてもらって。20本あれば200円。インスタントラーメンを買って、生きつないで。本当に困った時には、10円玉で家に電話をして。10円だとすぐ切れますが、『金、金、金』って3回言えるんですよ。融通が利く時には、その日の夕方に電報為替が届いて。そういう時にはホッとしましたね、『お金、あるんだ』って。2、3日経って現金書留が来る時は、『あ、苦労させてるな』という感じだったね」
中学生の時、ギターとの出会いがあった。
「中学1年の時、サイモン&ガーファンクルの『サウンド・オブ・サイレンス』に心震えて。ギターという楽器はこんなに美しい音がするんだ、と。2年の頃に加山雄三ブームが起きた。下宿先のお兄さんにギターを借りて、昼から『君といつまでも』を弾き始めて。夜、同じ曲ばかりを歌っているのも能がないなと思って、同じコード進行で別の曲を作りました。翌日、親友に聴かせたんですよ。そしたら、『え、ギター弾けんの?』って。『昨日、生まれて初めて弾いた』。僕が弾いて歌ったら、『すげーよ、天才だよ』って言うのね。今までヴァイオリンを上手に弾いても、こんなに感動してくれる友達はいなかったと思って、嬉しくなっちゃってね」
グループサウンズを耳でコピーして譜面に起こし、バンドを組んで文化祭で演奏した。
落語にも夢中になり、高校では落語研究会に所属。
青春を謳歌する一方で、「ヴァイオリンはどんどん下手になった」という。東京藝術大学を目指そうとしたが、次第に雲行きが怪しくなる。
「ヴァイオリンを弾いてて、楽しくてしょうがないっていうことは、あんまりなかったんですよ。とちったらどうしようとか、プレッシャーばっかりで。でもヴァイオリン修業で出てきて、背水の陣ですからね。長崎に帰ることは負けることだという思いがあったんで、高校時代は焦ってましたね。高校2年の時、進路を決めろと言われ、『無理だ』と思いました。このままだと現役で芸大に受かるはずがない。一浪してまでも受けるのか、選択に迫られましたね。結局、僕は芸大を受ける勇気がなくて、推薦で國學院大學法学部に入りました」
ヴァイオリニストとしての道を断念したのは、この時だった。
「やめることは、最初に父に相談しました。父は一瞬息をのんで、『まあおまえの人生なんだから、好きなようにしたほうが絶対いい』と。『お母さんはショックを受けるだろうから、折を見て僕から話すから』と言ってくれましたが、話してませんでしたね」
大学に入ると、アルバイトざんまいの日々。
両親の期待を裏切って音楽をあきらめた罰として、「学費以外の送金はいらない」と伝えたためだ。
「板前のバイトでお店のメニューを全部作れるようになったら、僕一人が働いてばっかりに。で、体を壊したんですね。(肝炎で)ひどい黄疸が出て。お医者は、『君、仕事やめないと死ぬよ』って。悩んだけども、二十歳の夏、両親がいる長崎に逃げ帰った。その夏が、人生の中で一番、重たい時間だったかなと思いますね。無様だ、花をまき散らすように期待されて出ていった俺が、音楽大学も受けず、音楽に挫折して、アルバイトして体を壊して、長崎に逃げ帰る。こんな恥ずかしいことがあるんだなと思ってね」
「悲しい帰郷」だったと述懐する。
大学は2年終了時に退学していた。
「長崎に帰って、することがなかったんで。ヴァイオリンは挫折したけど、18年、どっぷり音楽に漬かって生きてきてるから、歌謡曲の作曲ぐらいはできるなっていう、ちょっと思い上がった感覚があってね」
高校の同級生だった吉田政美と一緒に書きためた曲がたくさんあった。
長崎にやってきた吉田と曲作りにいそしみ、コンサートに出演。
あれよという間にフォークデュオ「グレープ」結成に至った。
レコード会社から誘いを受け、1972年にデビューを果たす。
「精霊流し」や「無縁坂」がヒット。
しかし、さだは再び体を壊した。
1976年にグレープは解散。
療養中、就職も考えたという。
「音楽を仕事にしようとは全く思ってなかった。レコード1枚でも出したっていう顔があると、長崎放送の音楽課(音楽番組を作る部署)で雇ってくれるんじゃないかと。ところが制作部長から、『君は歌いなさい』って言われたんですよ。考え直して、自分の小さな会社をつくって歌うことにしたんです。それからはまあ、あっという間に今日ですね」
ソロデビューしてから、「雨やどり」「秋桜」「関白宣言」など、次々とヒット曲を世に送り出した。
20代後半、人生を流転させることになったのが、映画『長江』の製作だ。
両親と縁の深い中国の長江を舞台にしたドキュメンタリー大作で、製作費は膨れ上がり、28億円の借金が残った。
「僕が見た数字は28億。なんで貸したかな。借りたら返さなきゃなんないじゃん。金利の高い頃だからね。34億〜35億、もうちょっと返したかもしれないね」
会社ではなく、さだ個人としての借金だった。
「自己破産という手段は、一度も思いつかなかったですね。『明日、駄目?』って聞いたら、『明日駄目ってことはないけど』って言うから、『駄目になるまで走らせてくれ』って言ったの。身勝手な話で申し訳ないけども、身内のことは全く考えもしませんでしたね。家訓があるんですよ。『どうにかなる』。結果は思い通りではないけど、『どうにかなる』でやってきましたね」
「ここまで額が大きければ、借金取りは家に来ない」とあっけらかんと振り返るが、道のりは長かった。
「走ってると、本当に、しんどくてしんどくて。コンサートを年間に186本やりましたからね。声はガサガサになるわ、体はボロボロになるわ。30年間、僕はもう本当に休みなく走り続けた。終わった時には、キツネにつままれたみたいで。『え、じゃあもう後は濡れ手で粟?』っていう感じだったね。僕の自慢は、社員とその家族、一緒に生活しながら返したこと。会社を切り捨てて、権利を全部自分が持って、自分で経理をやれば、もうちょっと早く返せたかもしれない。30年かかった理由は、みんなで暮らしたからだよね。つらいこともあったけど、腹の立つこととか悔しいことって、なんかキープできないんだな、俺」
苦労をしても、借金をしたことに後悔はない。
「中国に行ってあのフィルムを撮ったのは、僕の誇りだから。絶対に100年後、中国の人たちが僕に感謝する。それは信じてるから、全然後悔はしてない。ただ、お金を返すのは大変だから、『みんな、借金しないほうがいいぞ』って思うけどね」
作詞は「命懸け」だと力を込める。
「言葉一つで笑われたり、叩かれたりしてきましたんでね。感じたことを美しい音楽に乗せて届けたいと思って歌ってきたけれど、作詞をするマインドと、タイトルをつけるコピーライトの仕事が、実は別々なんですよ。どうも叩かれてきたのは、コピーライトの言葉選びかなと思いますね。例えば『精霊流し』で暗い、『無縁坂』でマザコン、『雨やどり』で軟弱、『関白宣言』で女性蔑視。自分としては痛くもかゆくもない……と言えば、ちょっと見栄を張っていて、やっぱり傷つきますよね。ちゃんと聴いてくれてないんだっていう寂しさが大きかったかな」
批判を受けても、それはそれ。
次を書く時に躊躇したりはしなかった。
「今思っていることを伝えるのが、作詞をする人間の仕事なんで。僕の場合、自分の発見した新しいことに、誰かが驚きや共感するものがあったら楽しいなと思って、複雑なボールを投げるタイプの作詞。そういう楽しみは、若い頃から少しも変わらないですね。50過ぎからは、批判も怖くなくなりました。生きてる限りは伸びしろを見ていきましょう」
今、「もっときれいな日本語の歌が聴きたい」と言う。
「日本語は本来、もっと美しい響きで話せる言語なんだがなあ……と思いますね。自分がどれほど切ない思いをしたか、どれほど感謝をしているか、顔色一つ変えずに伝えられる言葉が日本語にはあるんですよ。語彙を知らず、『やべー』で済ませちゃうのはもったいない。なぜあの時、あの人はこの言葉を言ったんだろう、その行間を読めない。もっと本を読んで、もっと人と話をして、もっといい音楽を聴いて、もっといい日本語に出会って、もっといい歌書いてくれよ。それが今、一番のストレスですね」
時代は流れても、「人間の出す音が好き」という思いは揺るがない。
「コンピューターがなければ、僕らの仕事は成り立っていかないけれども、サンプリングで代用するのは僕は嫌いだ。オーケストラを使うと、お金がかかる。だったらお金作ろうよ。もっと上手な人に来てほしけりゃ、もっとギャラを出そうよ。そしてもっといいものを作ろうよ。僕のアルバム作りは、そんな提案をし続けているようなもんですね」
この先に、“面白い夢”も描いている。
「200人ぐらい入る小さなホールをつくってもらってね、そこに住居も建てて暮らしたい。朝起きて体調がいい時には、白い旗がプーッと上に揚がってね、『あ、さだ、今日歌うんだ』って、みんなが集まってくる。すごいじいさんで、看護師が脇にいてね。3曲ぐらい歌ったら血圧測ったりなんかして。本来、そういう年に入ってもいいんだが、ならないね。もうちょっとかかる」
今年も全国を駆け回り、めまぐるしい日々はずっと続く。
「もういっぺん『さだまさし』を生まれ変わってやるかって言われたら、真っ平御免ですけどね。こんなにしんどいことは、やりたくねえ。波瀾万丈すぎる。でも、苦しかったけど、今でも苦しいけど、それが自分に与えられたものだろうなと思ってます。次はもっと分かりやすく人の役に立つ人生がいいな。お医者さんとかさ。被災地に行くと、いつもうらやましいもん。でも、避難所行って歌うとさ、みんないい顔で笑ってくれたり。ああ、これはこれでいいんだなって思ったり……分かった、もういっぺんやる、『さだまさし』」
参照元:Yahoo!ニュース