ポケモンはなぜ15兆円経済圏に成長した?社員9人、小さなゲーム会社を見捨てなかった任天堂の慧眼

スタンドマイクをイメージした画像

1996年のゲームボーイソフト発売から始まり、今や15兆円規模とも言われるポケモン経済圏。

その成功の裏には、ゲームクリエイターの情熱、幾多の困難を乗り越えたアニメ化、コロナ禍におけるコンテンツ戦略があった。

ポケモン(ポケットモンスター)がいかにして世界的な現象となったのか。

その歴史と成功の秘密を、キャラクターIP(知的財産)ビジネスに造詣の深いエンタメ社会学者の中山淳雄さんに聞いた。

野村:テーマは「ポケモン」です。中山さんの新刊『キャラクター大国ニッポン』でも分析されていました。私が小学生の頃にリアルタイムで体験したポケモンが、今や15兆円規模になっていると伺い、その凄まじい成長の秘密をお聞きしたいです。

中山:株式会社ポケモンは、特にここ3年ほどで驚異的な成長を遂げています。私が独自に積み上げた数字でも15兆円規模に達しており、これは他の多くのキャラクタービジネスを凌駕するものです。

野村:まず、ポケモンの歴史を振り返っていただけますでしょうか。

中山:ポケモンは1989年頃、現ゲームフリーク代表の田尻智さんが温めていた企画から始まります。当時、ゲームジャーナリストや編集者のような活動をされていた石原恒和さん(現・株式会社ポケモン社長)がその企画に可能性を見出し、任天堂に持ち込む流れとなりました。

野村:1996年のリリースまで7年もの歳月がかかったのですね。

中山:そうですね。面白いのは、ゲームフリークというベンチャー企業の良いアイデアを、任天堂がM&Aなどで吸収するのではなく、共同で育てていった点です。任天堂のプロデューサーである宮本茂さん(現・任天堂株式会社代表取締役フェロー)もアイデアを出し、ゲームボーイの通信機能を使った「交換」というコンセプトが生まれました。しかし、小さな会社だったゲームフリークは開発に行き詰まる時期もありました。そんな時、任天堂は『ヨッシーのたまご』という別の案件をゲームフリークに託し、育成する期間を設けたほどです。

野村:ポケモンを最初に作ったゲームフリークは、発売当時9人ほどの会社だったようですね。

中山:はい。最初は2人から始まり、9人ほどで1996年に最初のシリーズをリリースし、ミリオンヒットを記録しました。ゲームとしては大成功です。

野村:ゲームの大ヒット後、アニメ化の話もすぐに出たのでしょうか?

中山:実はアニメ化は2回断られています。当時の任天堂はアニメ事業が得意ではなく、ゲームの人気がアニメに吸われてしまう懸念もありました。IPとして育てるというより、ゲーム単体での成功を優先する風潮があったのです。

野村:それを拾ったのが小学館だったのですね。

中山:はい。小学館の久保雅一さんという方が、当時第2次ブームだったミニ四駆の『爆走兄弟レッツ&ゴー!!』の成功事例を提示し、「アニメにすると二次的なブームを起こせる効果がある」と説得したのです。それでも任天堂はアニメの制作委員会には出資していません。小学館や小学館集英社プロダクション、JR東日本企画などが中心でした。

野村:当初はそれほど期待されていなかったアニメだったのですね。

中山:そうです。しかし、アニメ制作は非常に秀逸でした。特に、ゲームでは数多くいるポケモンの中から「サトシ」と「ピカチュウ」という主人公と相棒の組み合わせを前面に押し出した点が素晴らしい。もともと、ゲームでのピカチュウは151種類のポケモンのうちの1種類に過ぎず、特別な存在ではありませんでした。これにより、単なるコレクションゲームのアニメ化ではなく、強い物語性が生まれたのです。

野村:言われてみれば、ゲームは原作なんですけど、アニメ化にあたって割と作り替えているというか、ストーリーを翻案していますよね。

野村:アニメと並行して、カードゲームも展開されましたね。

中山:はい、メディアファクトリー(当時はリクルートグループ)が手掛けました。私は2006年にリクルートに入社したんですけど、未だにその時の名残がありましたね。やはり「あの時エンタメで変なことをやっているやつがいたよな」と。「人材のリクルート」というイメージが強いですが、2002〜2003年ぐらいに1度ポケモンで大ブームが来た時にすごく儲かって、エンタメに振り切るべきかという議論があったぐらいです。その裏ではリクルート自慢の営業力がありました。任天堂のライセンスマネジメントの会社を作ったりと色々やっていて、カードゲームがいわゆる1つの商流としてまとめ上げられました。そして、ポケモンの成功を語る上で欠かせないのが海外展開です。1998年に英語版ゲームをリリースする際、中心となったのが当時ハル研究所の社長であり、後に任天堂の社長となる岩田聡さんです。

野村:あの岩田さんが関わっていたのですね。

中山:岩田さんはスーパープログラマーでした。当時、ゲームフリークは次期作『金・銀』の開発で手一杯で、英語版開発のリソースがありませんでした。そこで岩田さんは、日本語版の仕様書なしに、外部から解析して英語版を作り上げる「リバースエンジニアリング」という手法で開発を進めたのです。

野村:そんな作り方をしていたのですか!

中山:天才的な仕事ぶりです。そして、この英語版ポケモンがアメリカで大ヒットします。さらに、1999年にアメリカで公開された劇場版アニメ第1作は、今なおアメリカにおける日本映画の興行収入トップを維持しています。『ゴジラ-1.0』や『鬼滅の刃』の劇場版すら及ばない記録です。漫画もVIZ Media(小学館・集英社の米国法人)を通じて展開され、ポケモンブームはアメリカの若者文化に深く根付きました。

野村:その後、株式会社ポケモンが設立されるのですね。

中山:はい、1990年代末から2000年初頭にかけて、任天堂、ゲームフリーク、クリーチャーズの3社によって株式会社ポケモンが設立されました。しかし、ブームは一度落ち着き、2010年頃には赤字に転落するほど業績が悪化した時期もありました。当時は『妖怪ウォッチ』の勢いがすごかったので、ポケモンは抜かれてしまったという印象さえありました。

野村:そこからどうやって再浮上したのでしょうか。

中山:転機となったのが2016年の『ポケモンGO』です。これは記憶に新しいでしょう。ナイアンティック社のジョン・ハンケさんが開発したこのARゲームは、世界中で社会現象となりました。

野村:『ポケモンGO』はもう8年も前になるんですね。とはいえ、10年近くも低迷していた時期があったことでしょうか。

中山:きつかったと思いますよ。株式会社ポケモンの人が、ブシロードというカードゲームが強い会社に「カードゲームってどうしたらいいんですかね」と、相談していたようです。特に、ポケモンカードは低迷しまくっていたんですね。当時は遊戯王がすごく強くて、ブシロードの『ヴァンガード』が上がってきた時代です。ポケモンカードはそこまですごくないカードゲームというイメージでした。

野村:『ポケモンGO』のヒットが、その後のポケモンカードゲームの再燃にも繋がったのでしょうか?

中山:::::
まさにその通りです。『ポケモンGO』でポケモン熱が再燃した人々が、昔遊んだポケモンカードを引っ張り出す動きがありました。そして、コロナ禍で生まれた余暇時間や、ある種の投資対象としての側面も相まって、ポケモンカード市場は爆発的に拡大しました。

野村:YouTuberが高額なポケモンカードを紹介したり、1枚のカードが6億円で取引されたというニュースもありましたね。

中山:二次流通市場での価格高騰もブームを後押ししました。こうした複合的な要因が重なり、一時は低迷していたポケモンカードは、今や日本のカードゲーム市場の半分を占めるほどの存在になりました。株式会社ポケモンも、売上3000億円近く、利益700〜800億円という、他のエンタメ企業を寄せ付けない驚異的な業績を上げています。コロナの後のポケモンカードの動きというのは、エンタメ史に残るビジネス成功例かもしれませんね。

野村:まさに空前絶後の成功ですね

中山:私の本でも「空前絶後、前人未到」と書きましたが、ポケモンはゲーム、アニメ、カードゲーム、映画、そして『ポケモンGO』のような新しいテクノロジーとの融合と、あらゆるメディアを横断して成功を収めてきました。ハリウッド映画化された『名探偵ピカチュウ』も記憶に新しいです。

野村:これだけの巨大IPに成長した要因は何だとお考えですか?

中山:ひとつは、初期の段階で任天堂がゲームフリークという才能ある小さなチームのポテンシャルを信じ、サポートし続けた慧眼でしょう。そして、アニメ化における『サトシとピカチュウ』という発明、岩田聡さんのような天才による海外展開の推進力。さらに、一度低迷しても諦めず、『ポケモンGO』のような新しい挑戦で時代と寝食を共にしたこと。そして、デジタルとフィジカル(カードゲーム)を見事に連動させたメディアミックス戦略の巧みさ。これらの要素が奇跡的に組み合わさった結果が、今のポケモンなのだと思います。株式会社ポケモンの社員数もこの数年で10倍近くに増えたと聞いており、その勢いはとどまるところを知りません。ポケモンは、キャラクターIPビジネスにおける一つの到達点を示したと言えるでしょう。

参照元:Yahoo!ニュース