「何か違う」と思ったら脳性まひ 生後10か月で診断受けた19歳の母「次へ進める」と受け止めつつも「夫がひとりで泣いていた日」

子育てをイメージした画像

重度脳性まひの息子・亮夏さんとともに法人を設立し、現在は大学講師や講演活動、研修などの活動をする畠山織恵さん。

亮夏さんは仮死状態で生まれ、産後はNICUに入っていたそうだが、脳性まひだと判明したのはだいぶ後のことだったそうだ。

── 厳しいご家庭で育ったことで、学生時代から、その状況から早く逃れるたかったそうですね。

畠山さん:はい。とにかく早く家を出たかったんです。かといって、やりたいことはないし、何かができる自信もない。言葉を選ばずに言うと、手っ取り早いのが結婚でした。ただ「結婚したい」と言っても絶対に親に反対されることはわかっていたので、妊娠という既成事実を作ればいいと思って。当時つき合っていた夫に頼んで妊娠して、通っていた専門学校を中退して結婚しました。私は19歳、夫は22歳でした。

── どうしてそこまでして家を出たかったのですか。

畠山さん:父は、自分にも人にも厳しい人でした。ただ厳しいだけではなくて、私が言うことを頭ごなしに否定するんです。理由も聞いてくれなくて、意見をすれば殴られて、母はそれを遠巻きに見ていました。「これおいしいね」とか「この番組おもしろいらしいよ」とか、小さなことすら否定されて。両親が望む、偽りの自分しか認めてもらえないのが苦しかったです。「ここにいる限り、自分らしく生きることはできないだろう」と子どものころから思っていました。

今思えば、父は不器用で、自分の正しさを突き通すことが子どものためになると思っていたことがわかるのですが、当時はそこまで考えられなくて、とにかく家を出たかった。浅はかだったと言われればその通りなんですけど、それしか思いつかなかったですね。

── では、ご結婚されたときは解放感がありましたか。

畠山さん:いいえ、それが…両親に結婚の了承を得るまでは必死だったのですが、結婚が決まってからは「親に申し訳ない」という気持ちでいっぱいになりました。親が望む理想的な子どもになれなかったことが申し訳なくて、結婚式でも、幸せを感じるよりもただただ「ごめんなさい」という気持ちでした。

── 精神的に不安定な時期だったかと思いますが、妊娠中はお身体の具合などいかがでしたか?

畠山さん:おおむね順調でしたが、予定日の1~2か月くらい前に「赤ちゃんが少し下がってきているから、安静に」と病院で言われました。入院するほどではなかったのですが、自宅でどの程度安静にしていればいいのかよくわからなくて…。当時は「小さく産んで大きく育てるのがいい」と言われていて、妊娠中に体重が増えると病院で指摘される時代でした。私は太りたくなかったので、あまり食べないようにしていましたし、食べた後に吐くこともありました。実は1か月ほど早産だったのですが、今思うと、吐くと腹圧がかかるから、それも早産の一因になったかもしれません。

予定日より1か月くらい前に破水して、夫に病院へ連れて行ってもらいました。分娩台で子宮口が開くのを待っていたら、先生がいらして「赤ちゃんの心拍が止まっているじゃない!」と。緊急帝王切開になったのですが、全身麻酔だったので、気づいたらお腹がぺちゃんこになっていました。

── 初めて赤ちゃんに会ったときは、どんなお気持ちでしたか。

畠山さん:息子の亮夏は1722グラムの仮死状態で産まれました。低酸素状態だったところを蘇生されて、私が麻酔から覚めたときはNICUに入っていました。初めて会いに行ったときはなんだかピンとこなくて、「これが私の赤ちゃんですか」と言ったら、看護師さんに「これが、ではない」とたしなめられたのを覚えています。それくらい実感がなかったんです。

主治医の先生からは「内反足という足の変形があるから、矯正したほうがいい」という説明を受けました。そのため、生後1か月のときに転院して、足の矯正器具を作ってもらいました。亮夏が退院したのは、生後2か月が過ぎたころでした。

── ご自宅での育児がスタートしたのですね。

畠山さん:「子育てって、こんなに大変なん!?」と思いました。夜は眠らない、ミルクは飲まない、ずっと泣いていて。今思うと明らかにほかの子とは違ったのに、ひとり目だからわからなかったんですよね。小児科の先生や発育相談の保健師さんに何度か相談しましたが、「小さく産まれたからね。様子を見ましょう」と言われて、「こんなに大変なことを、みんなやっているのか。母親ってすごい!」と思っていました。

眠れなくて心身ともに追い詰められて、隣でぐうぐう眠る夫に殺意がわいたこともありましたけど、仕事が忙しい夫に頼ってはいけないと思っていました。夫は聞き上手というか、私が何か相談しても「どうなんやろなぁ」「ほんまやなぁ」と言うだけなんです。自分で選んで子どもを産んだのだから、「しんどいなんて言っちゃいけない」「疲れたから代わってほしいと言っちゃいけない」とひとりで抱え込んでしまっていました。

──「脳性まひ」と診断されたのはいつごろのことですか。

畠山さん:生後9か月か10か月のときです。リハビリができる病院を紹介してもらって転院したら、ひと目で「脳性まひです」と。「もっと早く連れてくればよかったのに」と先生に言われたときは、さすがに腹が立ちました。「何度も相談していたのに!」って。

同時に、ホッとしました。「ですよね」と。亮夏は同じ月齢の子たちと比べると、誰が見てもわかるくらい、いろいろなことが違っていたんです。いつまでも首が座らないし、笑わない。目の前におもちゃを置いても、手を伸ばそうとしない。何かあるとは思っていたので、理由がわかったことで次へ進める気がしました。

脳性まひというのは、出産のときに酸素がうまく脳に回らず、脳の一部が損傷することによって起こる障がいです。亮夏の場合は脳の運動機能をつかさどる部分にダメージを受けたため、「歩くことも話すことも難しいだろう」と言われました。そのときの私は、ショックを受けるというよりは「それで?どうすればいい?」という感じ。「とにかくリハビリをがんばればいいんだ」とやるべきことが見えて、「やっとアクションを起こせる」という気持ちが大きかったです。

脳性まひと診断された日、家に帰ってから、夫はベランダでひとり泣いていました。「亮夏がかわいそうや」と言って。夫が先に泣いてくれたおかげで、私は泣かずにすんだのだと思います。

19歳で母となった畠山さん。

脳性まひの息子さんとの暮らしが始まりました。

診断直後は誰にも頼らず1人で頑張りすぎて体を壊してしまったこともあるそうです。

そんなときに手を差し伸べてくれた義父母や保育園のおかげで畠山さんは大いに救われたそうです。

現在25歳になった息子の亮夏さんは、「脳性まひ」と診断されたときには考えられなかった以上の成長を遂げ、いろいろなことに挑戦しています。

参照元:Yahoo!ニュース