「芸能人は障害のある人間を家族に選ばないのに 」知的障害の兄との関係に悩んだ男性(41)が“テレビの障害者感動コンテンツ”を嫌いだった理由

疑問を抱えている人

障害や病気のある兄弟姉妹がいる子どものことを「きょうだい児」という。

親が障害のある子の世話にかかりきりで寂しい思いをする、兄弟姉妹がイジメられている姿を見るなど、苦しみを抱えることも多い。

都内在住でシステムエンジニアの白井俊行さん(41)は、自身が6歳のときに4歳年上の兄が難治性のてんかんと知的障害を負った。

それまで仲良く遊んでいた兄の性格が突然変わり、リビングでオナニーを始める、てんかんの発作で失禁するなどの事態が多発して生活は一変してしまったという。

その過酷な経験について話を聞いた。

――ご実家の家族構成から教えていただけますか?

白井俊行さん(以下、白井):当時は教師として働いていた両親と、父方の祖母、4歳上の兄の5人暮らしでした。

僕が6歳のときに兄が高熱を出して入院したのですが、熱で脳にダメージがあり、後遺症として難治性のてんかんと知的障害が残りました。

――そのときのことは覚えていますか?

白井:兄が入院していたのは1カ月ほどだったと思います。

両親や祖母は仕事を終えたら兄のお見舞いに直行するので、僕が学校から帰ってきても誰もいない状態が続きました。

まだ6歳だったので兄の入院についてきちんと説明されていなくて、親戚が来たり近所の家で夕飯を食べさせてもらっていましたが、よくわかっていなかったのが正直なところです。

寂しかったというより、混乱していたような気がします。

――6歳だと、障害を負う前のお兄さんの記憶もありますよね。

白井:兄が入院する前に、一緒にゲームで遊んだり、雑誌のふろくを作っていたことは覚えています。

実は「兄が障害を負って変わってしまった」ことがわかるようになったのは少し後になってからで、6歳の時点では「すごく意地悪になった」という印象を強く持っていました。

――意地悪とはどういうことでしょう?

白井:兄は10歳で、障害で知的水準が小学校低学年くらいに低下したのですが6歳の僕よりはまだ少し色々なことがわかっていたんです。

なので「俺は掛け算を習ったけれど、お前は習ってないからバカ」とか、僕が小学校3年生の頃に視力が低下してメガネをかけ始めたら、「お前は『見えない少年』だね」と言ってきたり、毎日のようにからかわれていました。

――そういう時はどう対処していたのですか?

白井:最初の頃は同レベルなので、言い返したり殴り合いのケンカになることもありました。

なぜか両親もそれを止めなかったんですよね。

――ほかに知的障害によることで印象に残っていることは?

白井:兄が中学生になった頃からは、月に数回リビングでオナニーを始めてしまうようになりました。

ズボンに手を突っ込んで動かしだして、服やパンツが汚れたり、床に液が飛んだりしても気にしないんです。

――周りに家族がいるときにですか?

白井:「それを人に見られたら恥ずかしい」ということが理解できなかったようです。

母が泣きながら片づけている景色をよく覚えています。

――お兄さんは難治性のてんかんでもあったのですよね。

白井:てんかんの発作が起きると、いきなり全身の筋肉が硬直して意識を失って倒れてしまいます。

食事中でもお風呂のときでも、いつ起きるかわからず、床に頭を打ちつけてしまうこともあって、子どもの頃は発作を見るのが怖かったです。

――食事中だと、熱いものや割れる食器など危ないですよね。

白井:そうですね。

お皿に顔をつっこんでしまって、お皿に載っているものがひっくり返ったり、食器が割れてしまったりすることも何度もありました。

体のコントロールもできないので、同時に失禁したりすることもありました。

――とても落ち着いて食事ができなさそうです。

白井:発作が起きると母と祖母が介助をしていました。

まずは窒息しないよう、口のものを取り除き、兄を寝かせてから食卓の片付けをしていました。

失禁したときは着替えも必要です。

――白井さんが手伝わされることはあったのですか?

白井:兄のオナニーの片付けも、てんかんの発作の介助も、手伝うように言われたことはないです。

それでもリビングにいたくなくて、さっさと自分の分を食べ終えて部屋にこもったりテレビを見ていました。

――お兄さんは障害を負ってから、特別支援学校などに転校したのですか?

白井:支援学級が併設されている学校だったので転校はせず2年間は同じ学校に通っていましたが、あの時期は本当に嫌でしたね。

イベントで兄だけみんなと同じことができなかったり、突然歌い出したり、意味のない言葉を大きな声で発したり。

他の子に兄がからかわれているのを見るのも恥ずかしくて。

兄がみんなの目の前で服を脱ぎ始めちゃったこともありました。

――どういう状況でしょうか。

白井:2人で一緒に近所にある習字教室に通っていたんですが、月謝を先生に渡すときに、兄が「ない!」と騒ぎはじめたんです。

最初は周りの子も「ポケットは?」と一緒に探してくれていたんですが、誰かが「脱いだら出てくるんじゃない?」とからかったら、それを真に受けて本当に全部脱いでしまって……。

笑い者になっている兄と同じ場所にいたくなかったですね。

――助けよう、という気持ちにはならなかった?

白井:ならないですね。家ではしょっちゅうケンカしていて、兄のことをずっと嫌いでした。

ただそれ以上に、学校や社会への不信感に苦しんでいた気がします。

――不信感ですか?

白井:学校では「障害者は弱い人だから、健常者が助けなさい」という教育をされますよね。

でも実際は、家に帰ると障害者の兄に僕はいじめられている。

そんな状況では「障害者は弱いから助けよう」とはとても思えません。

白井:大人になった今なら、「兄が憎い=障害者が憎い」じゃないことはわかります。

でも子どもの自分にとっては障害者=兄でした。

「障害者は助けないといけない」「でも自分は兄の事を憎く思っている」という板挟みで、障害者のことを憎く思う自分は悪い奴だと自分を責めていました。

「障害者のことを称えている芸能人の人たちが、実際に結婚したという話はほとんどないじゃないですか」

――「助けないといけない」という教育はそれほど強かったんですか?

白井:小学校高学年の頃に、道徳の作文の時間に先生から「良い題材があっていいね」と言われたこともあります。

「兄を助けたいです」と書いてほしいことが見え見えだったんですが、その頃には完全に反発していて「絶対に兄のことを作文に書いてやるもんか」と思って書きませんでした。

テレビで芸能人がやっているような「がんばる障害者を支える感動コンテンツ」的な企画も嫌いでしたね。

――24時間テレビのような?

白井:そうですね。学校の授業やテレビに出てくる障害者と家族の関係は「障害があっても、家族で助け合って乗り越えました」という美談に溢れているけど、家では母が泣きながら兄を介助したり、父が暴力をふるったりしている。

このギャップがとても大きく「障害者のことを助けるのが当然」だけれど「自分は絶対に介助したくない」という矛盾した感情に苦しんでいました。

――実際の苦しさはテレビには出てこない。

白井:そりゃ1年に1日や2日なら「障害者の人を助けよう」と思えるかもしれませんけど、365日そう思う事は僕にはできませんでした。

それにあんなに障害者のことを称えている芸能人の人たちが、実際に知的障害の人と結婚したり家族になったという話はほとんどないじゃないですか。

障害のある人間を自分の家族には選ばないのに、カメラの前でだけいい顔をしているように見えて、そういう大人に疑いの目を向けていました。

参照元:Yahoo!ニュース