偶然乗車した妹を襲った悲劇、25年にわたった闘病生活 兄が継いだ日記

過去を振り返っている人

地下鉄サリン事件から20日で30年になる。

首都・東京で起きた無差別化学テロ。

事件が残した傷痕と教訓を探る。

今月1日、土曜日の昼下がり。東京郊外の墓地を訪れた浅川一雄(65)は、5年前に亡くなった妹の幸子(さちこ)(享年56歳)の墓前で語りかけた。

「家族がこんなに増えたよ。幸子にも見せてあげたかったなあ」。

2~5歳の孫たち3人が、小さな手をそっと合わせる。

1月には4人目の孫も生まれ、また家族が増えた。

最近、一番年上の5歳の孫が、事件について取材を受ける一雄の姿を見て「取材って何?」と不思議そうに尋ねてきた。

「昔、地下鉄サリン事件というのがあってね……」と初めて事件の話をした一雄。

妹の命を奪った30年前の出来事をいつか話して聞かせようと思っている。

1995年3月20日。

幸子は31歳だった。

都外のスーパーで働き、東京近郊の自宅からバスで通っていた。

しかし、あの日はたまたま、都内で予定されていた研修に参加するため、営団地下鉄(現・東京メトロ)丸ノ内線に乗った。

その丸ノ内線で、オウム真理教幹部が猛毒ガス・サリンをまいたのだった。

一雄が病室に駆けつけると、土気色の顔をした幸子の姿が目に入った。

体中にチューブがつながれ、集中治療室のベッドに横たわっている。

「お兄ちゃん来たから、もう大丈夫だ」。

耳元で声をかけたが、反応はない。

医師からは「農薬のような劇薬を吸ったようだ。いつ亡くなってもおかしくない」と告げられた。

いったい何が起きたのか――。

妹が毎日欠かさずつけていた日記のことを思い出した。

「意識を取り戻した時に、『お前、こうだったんだよ』と教えてあげよう」。

妹に代わって筆を執った。

地下鉄サリン事件に巻き込まれた浅川幸子(さちこ)(当時31歳)。

妹に代わって兄の一雄(65)がつづった日記は、事件が起きた1995年3月20日の記述で始まる。

〈3/20 12:00頃 医大に当着〉〈中の坂上の駅→事ム室〉

病院に到着したと思われる時刻や、中野坂上駅で倒れて事務室に運ばれたことを書き込んだ。

動揺のせいか、漢字を間違えている。

猛毒のサリンガスを吸った幸子は脳に酸素がいかず深刻なダメージを受けた。

<先生の話によると、ノド仏の下あたりに穴をあけ、人工呼吸をする。口からはもう限界との事>(95年3月23日)

<(主治医が)このままの状態のままになる可能性があるので覚悟というか心の準備というか、考えなくてはいけないというような話をしていた>(95年4月5日)

家族の願いが通じたのか、5月上旬、母の呼びかけに涙を流したようにも見えた。

兄の筆も軽やかになる。

<看護婦さんが「お名前は?」と聞くと、しわがれた声で「あ・さ・か・わ・さ・ち・こ」と言った。(中略)私は、しばらく感動して泣いてしまった>(95年6月30日)

幸子は体の自由がきかず、会話もままならない。

退院のめどは立たなかった。

事件前日、小学校入学を控えた一雄の長男にランドセルをプレゼントしてくれた家族思いの妹。

この頃、一雄は自らを鼓舞するように、日記をこんな言葉で締めるようになった。

〈明日も一生懸命生きよう!〉〈フレー フレー 幸子! 頑張れ 頑張れ 幸子! ワーッ!!〉

浅川一雄さんがつづった日記には、幸子さんが「バカ 死刑」と話したことが記録されている

リハビリも始まり、前向きであろうと努めた。

事件後しばらく、事件の報道は耳にすることさえ避けていた。

だが、他の被害者たちと交流を重ねるうち、「事件と向き合おう」と思い直した。

96年4月から始まったオウム真理教の教祖・麻原彰晃こと松本智津夫元死刑囚(執行時63歳)の裁判も傍聴した。

<あんな奴らの為にクーッ!! クヤシイ。本当にクヤシイ>(96年10月4日)

日記には幸子の思いもつづられた。

一雄が教団幹部らの公判に証人として出廷する時のことだ。

<「裁判があるんだ。幸子はどう思う?」ときくと「バカ。死刑」と大きな声で叫んだ>(99年11月23日)

地下鉄サリンを含む13事件で罪に問われた松本元死刑囚には、2004年2月に死刑判決が出た。

一雄は日記に気持ちをぶつけた。

〈死刑だからと言って、私達の生活はかわらない。幸子も良くなる訳ではない〉(04年2月27日)

この前年、幸子は8年半の入院を経て退院し、一雄の自宅で暮らしていた。

車いす代、専用のベッド代、おむつ代……。

様々な費用が家計に重くのしかかる。

共働きの一雄と妻はヘルパーの力も借りて懸命に介護した。

子どもたちとの時間はほぼなく、日記も途切れがちになった。

サリンは長い年月をかけて、幸子の体をむしばんだ。

17年10月、幸子は突然けいれんを起こして入院。

体の硬直が進み、言葉を発することができなくなった。

体重は25キロ前後まで減った。

20年2月に一雄の初孫が生まれ、その泣き声の録音を耳元で聞かせると、体を必死に反らして喜びを表した幸子。

その1か月後の3月10日、25年に及ぶ闘病生活の末に息を引き取った。

享年56歳。

死因はサリン中毒による低酸素脳症だった。

「よく頑張ったね。お疲れさま。ゆっくり休もう」。

一雄はそう声をかけた。

一雄は今、妻や長女夫婦、孫2人を含めた家族6人で、にぎやかな生活を送っている。幸子の命日の今月10日には、自宅の仏壇にお供えをして手を合わせた。

一雄は被害者や遺族が取り残されていると感じている。

まだ言葉を発することができていた頃に幸子が口にした一言を忘れられない。

「お兄ちゃん、迷惑かけてごめん」。

そう思わせてしまったことがつらかった。

教団の後継団体からの賠償金の支払いは滞ったまま。

被害者や遺族に対する心のケアも十分ではない。

一雄は「犯罪被害者が一人でも生きていけるよう衣食住の支援が最低限必要だ」と訴える。

事件前、優しくほほ笑む幸子。

事件後、車いすに腰掛けて何とか笑顔を見せようとする幸子。

最期は、笑顔を見せることすらできなくなった幸子――。

一雄は今でも、写真を見返すたびに気分が沈む。

事件から30年。

オウムへの怒りは消えないという一雄はこうも思い始めている。

「いつも笑顔で明るい家族でありたい。家族思いだった幸子もそれを望んでいるだろうから」

参照元:Yahoo!ニュース