福島県最大規模の避難所で感染まん延、壊れかけた被災者の心 立ち向かった男性

約16万人が避難を強いられた福島第一原発の事故。
着の身着のまま故郷を追われた住民たちは学校の体育館や企業の施設などに身を寄せた。
中でも約3000人が集まり“最大規模の避難所”と呼ばれたのが原発から約60キロ離れた交流施設「ビッグパレットふくしま」だった。
通路は雑魚寝する避難者で溢れ、衛生状態が悪化。
感染者が急増し「人が死ぬかもしれない」という極限状態だった。
プライバシーの確保もできず、故郷への帰還も見通せないまま、皆が疲弊する…。
避難所の運営責任者だった男性は「人と人とのつながりを紡いでいく」ことで避難者の笑顔を取り戻した。
男性は今、その経験を全国で伝えている。
そして、危機感を募らせている。「日本の避難所は100年変わっていない」。
2011年3月11日の巨大津波、その直後の福島第一原発の事故により、福島県沿岸の住民たちは各地の避難所へ一斉に避難を始めた。
当時、県職員だった天野和彦さん(当時52歳)は沿岸部の小学校に入り、避難所支援にあたった。
約1か月後、県の災害対策本部から急遽、呼び戻され、幹部からこう告げられた。
「人が死ぬかもしれない、すぐに『ビッグパレットふくしま』に行ってくれないか。ノロウィルスの感染者が30数名出て、隔離されている。役場職員も限界で県が介入するしかない」。
「ビッグパレットふくしま」は県の交流施設で、当時、沿岸部にある富岡町と川内村が役場機能を移し、約3000人が避難していた。
県内最大規模の巨大避難所で、感染症が蔓延すれば死者がでる可能性が高まっていた。
すぐに現地に入った天野さんは言葉を失った。
通路などあらゆる場所が人で溢れていた。
「生活するような場所じゃない通路のところでも人がいっぱい横になって、プライバシーと言える空間はまったくなかった。食べ物の匂いに人の体臭などが混ざり合って、ムワッと淀んだゼリー状のような空気に包まれていた」。
避難者たちは硬いコンクリートの床に毛布を2、3枚敷いて、隣との仕切りもほとんどなく生活していた。
トイレの出入口から50センチも離れていないような場所で雑魚寝をし、食事をしていた。
トイレを利用したい人たちはその人たちを跨いで中に入っていった。
避難所では人が密集し、こまめな掃除もできず、衛生状態も最悪のレベルだった。
ノロウィルスは瞬く間に広がり、激しい嘔吐と下痢を繰り返し、体が衰弱していく患者の数は100人を超えた。
「本当にここでやっていけるのか、なにからやっていけばいいのか…。ただ、何としてもここで命を守らなければならない」。
天野さんは避難所の状況を把握しようと、避難所運営を担っていた富岡町と川内村の職員に避難者の名簿を求めた。
名簿は全体の人数や男女比、特別な支援が必要な要介護者や障がい者がいないかなど、避難環境の改善を図って命を守る基礎データとされる。
しかし、職員からは思わぬ答えが返ってきた。
「避難所の出入りは自由でまともな名簿がない…」。
天野さんはその男性職員を見つめ、「あなた方は1か月間なにをしていたのか」と聞こうとしたが、言葉を飲み込んだ。
職員の髪の毛はボサボサで、ひげも伸び放題だった。
目の下は隈で真っ黒になり、疲れ果てていた様子だった。
60代くらいの男性職員は震災後からほとんど休まずに仕事をしていたという。
「休んでいますか?県庁が来たからもう大丈夫ですよ、一緒にやりましょう」。
行政職員も被災者だった。
男性職員の様子を思い出した天野さんは涙を浮かべた。
天野さんは医療チームと連携しながら、避難所内でのアルコール消毒を徹底した。
そして、居住エリアで世帯ごとの区画を整理し、避難者の間にできる限りのスペースを設け、感染症の蔓延を防いだ。
これにより、プライバシー空間を確保できるようになり、カーテンで仕切られた居住スペースを新たにつくることができた。
感染リスクの高いトイレ周辺に住む人たちから移動してもらった。
密集状態は次第に解消され、ノロウィルスの感染者もゼロになった。
ただ、天野さんは避難所で駆け回る中で、潜む最大の課題に気づく。
喫煙所で80代の避難者の男性が天野さんにぽつりと本音を漏らした。
「天野さんよ、俺の骨は富岡町にさ、埋めてもらえるのかな」
天野さんは即答できなかった。
少しでも前向きになれそうな言葉を探したが、「そうですね…」と返すのが精いっぱいだったという。
原発から漏れ出た放射性物質が故郷に降り注ぎ、一体いつになったら戻れるのか誰もわからない状況が続いていた。
避難者の多くは突如、故郷を追われ、家族が県外に避難し、ばらばらになっていた。
地域のつながりも断たれ、隣は誰かも分からない状態だった。
その高齢男性の寂しげな表情は今でも鮮明に覚えている。
「ものすごくしんどかっただろう…。避難所は先が見えない不安に包まれ、生きる希望や夢を失っていたような。ぶつけるところのない怒りや悔しさのようなものも感じた」。
心が折れそうになっている避難者をどうすればよいか。
悩んでいた天野さんは、新潟中越地震でも支援活動を行っていたボランティアグループと話す機会があった。
悩みを打ち明けると、「足湯活動と喫茶サロンが有効」と聞いた。
天野さんはすぐに取り組みを始めた。
学生などのボランティアらを集め、タライにお湯と香りのよいソープを入れて、避難者の足を温めながら、合間に手や肩をマッサージした。
すると、リラックスしていく避難者たちがボランティアたちにぽつりぽつりと自分の思いを話し始めたという。
最初は「どこ出身?」から青春時代の思い出、故郷への思いや原発事故に対する悔しい気持ちなど、避難所に来てから誰にも言えなかった会話が広がっていた。
避難者同士もお互いの思いを話し合うようになり、新たな人と人のつながりができていった。
天野さんは避難者たちの傍で耳を傾けた。
「言葉の中には避難生活での悩みや要望もあって、運営していく上でのヒントもあったんです」。
避難者同士の交流を図るため、喫茶コーナーを作ろうとした時には思いがけないことが起きた。
職員がテーブルを並べ、コーヒーを淹れる器具の使い方が分からず戸惑っていたところ、中年の男性避難者が近寄り、黙々とコーヒーを淹れ始めたという。
その香りにつられて、周りの避難者が次々と集まってきた。
この男性は皆から「マスター」と呼ばれるようになり、避難者の中から「マスター」を手伝う「仮マスター」や床を掃除する人、陶器のカップを買ってくる人などが生まれた。
「自分たちができることを出し合っていく姿はまさに自治が形成されていく過程だった」。
天野さんは嬉しそうな顔で振り返る。
交流と自治の場は避難所の中で増えていくにつれ、避難していた人々の表情も徐々に明るくなり、笑顔を取り戻していった。
原発事故から約5か月後、ビッグパレットふくしまの避難所は閉鎖となり、避難者たちは生活再建を見据え、仮設住宅や借り上げ住宅などに移っていった。
避難所で亡くなった人は0人だった。
「やっぱり人を救うのは人しかない。暮らしの中で人と人のつながりは皆さんの心を丈夫にしていくんだと思った。災害時はそれが、被災者の命を守る。」
しかし、その後県内では長引く避難生活のストレスなどで亡くなる「関連死」が相次いだ。
福島では今も増え続け、直接死・行方不明者の1614人を上回る2348人(2024年12月時点)と、岩手や宮城と比べ突出している。
災害関連死は2016年の熊本地震では224人(2025年1月時点)、能登半島地震ではそれを上回る298人に上っている(2025年2月6日時点)。
復興の課題に向き合おうと天野さんは大学の研究者に転身した。
天野さんは今、全国を回り避難所での支援や助言活動を続けている。
その中で、学生や自治体の職員などに数枚の写真を見せながらこう訴える。
「南海トラフや首都直下地震が発生すれば、何百万人の避難者が想定され、日本の避難所の現状が続けば、想像をはるかに上回る『災害関連死』が出るだろう」。
見せた写真は、1930年に起きた北伊豆地震時の避難所と昨年元日に起きた能登半島地震直後の避難所の写真だ。
どちらも、避難者のプライバシーを守る仕切りはなく、雑魚寝状態だ。
「劣悪な環境の中で被災者の心はどんどん弱まっていく。避難所を出てからの生活再建なども想像できない」。
天野さんによれば、避難所運営の先進地であるイタリアでは災害が発生してから48時間以内に、バリアフリーのトイレや温かい食事を提供する移動式キッチンカー、さらにベッドを完備した大型テントが避難所に届くという。
そして、避難者に提供される食事にはワインも添えられていた。
「避難所でお酒を飲ませようというわけではない。ワインを日常的に嗜むイタリアでは災害が起こる前の暮らしを、災害が起きても途切れさせないようにする考え方となっていて、被災者への生活支援は国民の権利として捉えられている」。
全国で大きな災害が相次ぐ中、天野さんは「日本の避難所運営は100年変わっていない」と訴える。
日本の避難所は雨風をしのいで、食事が提供されるだけの場所として認識されていて、被災者が支援を受ける権利があるという考え方とは程遠い。
いつかやってくる災害から命を守るためには、私たち一人一人の人権に目を向けることが大切なのかもしれない。
参照元:Yahoo!ニュース