海外で売れまくった船井電機テレビデオ 設計した技術者「寂しいな」

サラリーマンをイメージした写真

破産手続き中の船井電機はかつて「世界のFUNAI」と呼ばれた。

一世を風靡(ふうび)したのが、テレビと一体型のテレビデオで、最盛期は北米で60%超のシェアを占めた。

この設計に関わった技術者が、開発秘話や突然の解雇への思いを語った。

《船井の破産決定を受けて解雇された50代後半の男性技術者は、バブル終盤の1990年代前半、船井に入社した。同期は100人以上いたという》

工学部を卒業して技術者になろうとは思っていた。

でも、超大手だと自分のやりたいことがどこまでできるかわからない。

船井くらいの規模であれば、融通が利くかも。

そんな思いで入社を決めた。

あと、学生時代、家電量販店でアルバイトしていたから、船井ブランドにはもともとなじみがあった。

当時の船井の印象としては国内メーカーにしては、他社よりはっきり安い。

お金にゆとりがない若い層が、テレビやテレビデオを盛んに買い求めていた。

テレビデオで比べても、高級志向だった現在のパナソニック、安価を売りにした船井。

売り場は二極化していた。

何で船井のテレビデオがこれだけ当たったのか。

私は理由があると思っている。

それは置き場に困らないし、配線がいらないから。

そこを狙った製品であり、うまく狙いがはまってロングセラーになったと思っている。

たとえば下宿している学生らは狭い部屋にいて、一体型のほうが良いだろう。

配線だってごちゃごちゃしないほうがうれしい。

そういうニーズに応えた製品だったと評価している。

ちょうど完全内製化に取り組んでいるころだった。

内製化できればコストを下げられる。

収益が上がるし、安価になって売り上げを伸ばせる。

夢中だった。

内製化は技術者にとってめちゃくちゃ達成感がある。

1年ごとにモデルチェンジし、できるだけマイナーチェンジにならないようにする。

コストは少なくても前年より1割カット。

期間もコストもノルマが厳しい。

スピード感があるし、若くても任せてくれて挑戦させてもらえる。

お師匠さんとなる上司にもよるが、そんな社風だった。

《テレビデオは、1990年代後半から2000年代前半にかけて北米を中心に売れまくった。男性は忙しかった1990年代後半、海外の工場に行き、滞在できる限度の3カ月ぎりぎりまで仕事をした。「世界のFUNAI」には神髄があったという》

海外の工場では、前のモデルから変更した点をチェックし、安定させていく作業を続けた。

出国前、ローンを組んで300万円ほどの外国車を買ったこともある。

帰国したらローンを全額返済できるほどお金がたまっていた。

ボーナスもふんだんに出たし、今だったらあり得ない話だが、残業は最大220時間にも及んだ。

船井の勝負どころは「世界の最先端争い」ではないと思っている。

他社製品の良いところを抽出し、いかにコストダウンして買い求めやすいものにして普及させるかだ。

この勝負にやりがいを感じていた。

かりやすく言えば、どんどん部品の数を減らしていく。

肉をそぎ落とすというか。 とくに思い入れの強いビデオ製品がある。

一番残業した頃のモデルだ。

磁気ヘッド周りの心臓部分の部品を一体化し、部品の数を減らした。

それで大幅なコストダウンを達成した。

船井が力をいれている北米市場と国内市場では、売れる製品が違う。

北米はケーブルテレビ(CATV)が普及しているから、録画より再生がメイン。

機能もシンプルなほうが受ける。

言ってみれば付加価値はあまりいらない。

リモコンもシンプルでボタンが大きいほうが良い。

指の大きさも日本人とは違うからだ。

日本では録画が中心だし、機能が多いほうが当たりだ。

たとえばCMをカットする機能とか。

そういう違いも意識して設計していた。

毎年、年末商戦を意識して、11月ごろから量産に入れるようにしていた。

今だとネットの口コミ評価だし、昔なら家電量販店を通じたお客さんの声を気にしていた。

船井の製品について「やっぱり安かろう、悪かろうだな」と言われるのが嫌だった。

それを聞くと燃えてくる。

絶対に改良してやろうって。

ビデオデッキについても、お客さんの不満が聞こえてきたことがある。

ノイズがあるとか、テープが安定しないとか。

そういう不満を一つずつ解消していく。

それもコストダウンをしながら。

しんどいですが、おもしろくもある。

 《入社から30年余りが過ぎた2024年7月1日。大阪にある船井本社の食堂に従業員が集まり、上田智一・前社長が会社の窮状を説明した。上田氏は「いかに物を作らないようにするかというのが今の局面では勝つ方法です」と語った。上田氏は看板のテレビ事業への依存体質を脱し、事業の多角化を図るとしていた》

経営が厳しいとは思っていたが、ここまできていたのかと。

経営トップとしての「窮状の共有」なんでしょうけれど、設計や生産に関わる技術者に「あなたの技術は不要です」と言っているのと一緒。

私もそうだが、多くの技術者が傷ついだろう。

実際、現場の人間は辞めていった。

1人や2人とかじゃなく。

やっていることを全否定されたわけだから。

私の場合、怒りとかじゃなく、とにかく寂しいなあって。

上田前社長をはじめから否定していたわけじゃない。

でも、船井の製品とか歴史に興味があるようには見えなかった。

関心がありそうなのはM&A(企業合併・買収)。

メーカーでなく、「商社」として経営していきたかったように見えた。

脱毛サロンチェーンの買収にしてもそう。

看板の液晶テレビ事業への依存から脱却し、「事業の多角化」を打ち出していたが、テレビ事業がもうからないから、経営者としては致し方ないのかなあ。そう思っていた。

ただ、「いかに物を作らないようにするか」という発言を聞いて、技術者のこだわりや船井の社風をわかっていないんだなあって。

だから、寂しいなって思った。

いきなりの解雇だから生活面の不安はあった。

子どもは大学生でお金がかかりますし。

10月末までに半期分、50万円以上の授業料を納める必要があって、預金を崩すしかなかった。

もし民事再生法の適用が認められ、船井電機という会社の看板が残ったとしても、私にとってはもうそこは別の会社だ。

私が好きだった船井電機ではない。

戻るつもりがあるかと聞かれれば、ない。

参照元∶Yahoo!ニュース