「♪見よ東条のはげ頭」「♪パーマネントはやめましょう」 戦時中の替え歌から当時の子どもたちの本当の姿が見えた

戦時中の日本をイメージした写真

「♪夕焼け小焼けで日が暮れない」。

空腹にいじめ…戦時中、疎開先で過酷な集団生活を送っていた子どもたちが歌った替え歌だ。

少年飛行兵になるために訓練を受けていた少年は「♪尻の痛みに耐えかねて」と、気絶するまで尻を棒で殴られたという激しい体罰の様子をユーモラスな替え歌にした。

くすりと笑いたくなるような替え歌の裏には、当時の子どもたちのいじらしい姿が見え隠れする。

東京・葛飾区立北野小 4 年の2人が「旅立ちの日に」の替え歌を歌ってくれた「♪いま(いま) 別れのとき 飛び立とう 未来信じて」卒業ソング「旅立ちの日に」。

この名曲が、子どもたちにかかると…。「♪ピーマン(ピーマン)わかめ味のポッキー 飛び納豆 苦いしいたけ」こんな替え歌に。

歌謡曲や人気アニメの主題歌の替え歌も流行っているという。

実はこの替え歌、戦時中も子どもたちの間でさかんに歌われていた。

大阪府に住む外山禎彦(とやまよしひこ)さん(90)。

太平洋戦争の初期の頃に歌った「皇軍大捷の歌」という軍歌の替え歌を、はにかみつつも歌ってくれた。

「♪パーマネントに火がついて みるみるうちにはげ頭 はげた頭に毛が三本 あぁ恥ずかしや恥ずかしや パーマネントはやめましょう」写真左:外山禎彦さん(当時9歳)

疎開直前の1944年夏、大阪市住吉区で撮影戦時中、「贅沢は敵」とされ、パーマは贅沢で控えるべしという風潮があった。

この替え歌は、パーマの女性をからかっているようにも、そうした風潮を揶揄しているようにも聞こえる。

この頃はまだ、市民生活にもある程度の余裕があったのかもしれない。

1944年には爆撃機B-29による空襲が本格化。

外山さんは、両親や親戚と住んでいた大阪市住吉区を離れ、岸和田市郊外に学童疎開することになった。

まだ小学4年生だった。

外山禎彦さん(90)「親は心配していたけど、子どもたちはむしろ『疎開は面白いぞ』という感じだったですね。それで修学旅行の代わりみたいなつもりで、将棋やかるたを買って行きましたね」

しかし疎開は、外山さんが考えていたようなものではなかった。

食料は常に不足していて、喧嘩が絶えない。

陰湿ないじめもあった。

過酷な集団生活に耐えかねて、脱走する子どももいた。

外山禎彦さん(90)「食べ物をくちゃくちゃ言わせながら食べるとか、あいつは食べ物を、皿の底まで良くすくって食べるとかね。友達同士の軋轢が厳しかったですね」

そんな中、外山さんは軍歌を歌って自らを奮い立たせたと言う。

当時のメモ帳には外山さんが書き写した軍歌の歌詞が、びっしりと書き込まれていた。

しかし軍歌をいくら歌っても、苦しい疎開生活はいつまでたっても終わらない。

そこでひっそりと歌われ始めたのが、「替え歌」だ。

それは「パーマネントをやめましょう」とはニュアンスの異なるものだった。

「♪見よ東海の空あけて 旭日高く輝けば」という歌詞で始まる勇ましい軍歌「愛国行進曲」が次のような歌詞に。

「♪見よ東条のはげ頭 旭日高く輝けば おでこがぴかりと光ります はえが止まれば滑ります」

戦争を推し進めた首相、東条英機をからかう歌詞。

先生に見つかればこっぴどく叱られるのは間違いないが、子どもたちはこうした替え歌で日々のストレスを発散していたのだろう。

実はこの東条を揶揄した替え歌、全国各地で歌われていた。

もちろんSNSなど無く、前首相を批判する“不謹慎”な歌がラジオから流れることもない。

全国から子どもたちが集まる疎開先で、自然と広まったのではないかと言われているのだ。

それを裏付けるように、外山さんがこんな替え歌を歌ってくれた。

外山禎彦さん(90) 原曲不明「四国から集団疎開に合流した子がおって、『♪ここは愛媛か松山町か、松山町なら名物予科練 名物予科練のワカバサンが 弾がつきれば度胸を据えて なんとかすれば体当たり』みたいな歌がありましたね」

疎開先で、愛媛の松山から来た少年に替え歌を教わったと言うのだ。

替え歌は軍でも良く歌われた。

海軍の少年飛行兵になる訓練を受けるため、14歳から17歳の少年たちが、憧れを抱いて門をたたいた飛行予科練習生=通称「予科練」。

憧れとは裏腹にその訓練は過酷なものだった。

ミスをすれば、激しい体罰があったのだ。

茨城県阿見町にある予科練平和記念館には、体罰に使われた棒が展示されている。

歴史調査委員の中川さんが、説明してくれた。

予科練平和記念館 歴史調査委員 中川龍さん(84)「『海軍精神注入棒』=通称『バッター』です。壁に手をついて尻を突き出す。そこを『姿勢を取れ、ばし、ばし、ばし』って叩かれる。(尻の)皮が一枚むけちゃうくらい、とてつもなく痛い。中にはひどい目にあった人もいて、倒れた人に水をぶっかけて起こして、そしてまた叩いたということもあったそうです」

大分県の護国神社では、予科練で替え歌が歌われていた証拠が見つかった。

去年閉館した地元の記念館から運んできた資料の中に、徳島県で訓練をしていた予科練生が書いた画集があり、そこに替え歌の歌詞が書かれていたのだ。

題名は「練公と尻」。

「♪尻の痛みに耐えかねて 列を抜けだしションボリと 一人歩きのさびしさよ」

「野辺山節(旧字体で書かれている)」

緊迫した戦況がうかがえる厳しい体罰を歌にして笑うことで気を紛らわせていたのだろうか。

原曲は服部良一が作曲し大ヒットした「湖畔の宿」。

本来は「♪胸の痛みに耐えかねて 昨日の夢と焚き捨てる 古い手紙のうすけむり」という感傷的な歌詞だ。また別の画集には、戦争末期の緊迫した戦況をうかがわせるような替え歌が載っていた。「さらばラバウル」という軍歌の替え歌だ。

「♪若い心につとなつかしく 忍ぶ母さん倒れし友よ にくいあの敵 もえたついかり 腕の血潮がまたうづく」

長野県の野辺山には基地があり、グライダーで特攻の訓練が行われた。

そこにいた予科練生が書いたものだ。

「野辺山節」と名付けたこの歌を、みんなで一緒に歌ったのかもしれない。

戦史研究家の豊の国宇佐市塾・織田祐輔さんは、軍で替え歌が歌われた背景に、「一体感」があるという。

「今の校歌などのように、歌を歌えば一体感が出ます」。

戦時中の替え歌を研究する立命館大学の鵜野祐介教授の元には、全国各地から情報が寄せられている。

軍を揶揄する替え歌、苦しい生活を嘆く替え歌、様々なものがあるが、知られていない替え歌が、まだまだ眠っているのではないかという。

立命館大学 鵜野教授「替え歌って言うのはまず聞かないと出てこない文化。口伝えで『じいちゃん、子どもの頃に東条英機のはげ頭とかって歌っていたよ』と話すここがあっても、自分の日記には書かない。でも子どもの頃の文化を誰かが書き留めることによって、戦時中でも子どもが人間らしく、自分らしく生きていたいと思っていたという記録になると思う」

鵜野教授が収集した替え歌は58曲。

文学部のこの日の授業では、童謡「夕焼け小焼け」の替え歌が取り上げられた。

「♪夕焼小焼で日が暮れない 山のお寺の鐘鳴らない 戦争なかなか終わらない からすもお家へ帰れない」

終わりの見えない戦争に対する、子どもたちの悲しい気持ちが表れている。

立命館大学 鵜野教授「『からすもお家へ帰れない』という歌詞ですね。疎開をして、家を離れて都会から田舎に行ってそこで生活していた人が大勢いたわけですよね。その子たちが、『おうちに帰れないのはぼくも私も同じだ』という思いがこの『からすも』という歌詞にあると言われています」

替え歌を聴いた学生は-

「普通の言葉として発するよりも、音楽に乗せて発すると、さみしい気持ちもあるけど、ちょっとポップに変えるというか、ごまかしているというか。暗い環境の中でも明るくいられる、子どもたちなりの努力を感じました」

替え歌から、辛い日々を生き抜く子どもたちの姿が垣間見えた。

参照元∶Yahoo!ニュース