不妊治療の「成績」を知りたい 保険適用から3年、クリニック選びの難しさ

2022年4月に不妊治療が保険適用となり、まもなく3年。
体外受精を含む高度な治療にも保険が適用され、治療を選択する人は増加した。
だが、患者たちは治療先を選ぶのに苦労している。医療機関ごとに治療方針や成績開示の方法が異なり、最適な選択ができないというのだ。
なぜばらつきがあるのか。
特色の異なる3つのクリニックの院長に取材した。
不妊治療が保険適用になってから、3年が経とうとしている。
治療を検討する人が増えるなか、今どんな課題があるのか。
各地の患者やクリニックなどを独自取材した。本記事は前編で、クリニックの成績開示について取り上げる。
「治療成績がわからないと選べない」治療先はどう選べばいいのか――。
都内在住の沙織さん(仮名)は24歳で結婚し、なかなか子どもを授からないことから27歳で不妊治療を決意。
だが、その入り口で立ち止まることになった。
インターネット上の各クリニックのホームページには、「豊富な経験」「最新の技術」「患者に寄り添う」などと謳い文句が並ぶ。
けれど、いろいろなクリニックのホームページを探索していて特に困ったのは、治療成績の公開の仕方がそれぞれのクリニックでバラバラだったことだ。
「特に年齢層別の治療成績が公開されているところが少なかったため、自分と同じ年齢層での成功率が分からず、適切なクリニックをどう選ぶべきかの判断が困難でした」(沙織さん)
結局、アクセスのよさと口コミで選んだ医院に通い始めたものの、もやもやした思いは残る。
当初は不妊治療に多種多様な方法があることもよくわからなかったが、クリニックがホームページで紹介している情報にも偏りがあり比較が難しかった。
沙織さんはこう振り返る。
「口コミで評判が良くても、実際の成績がわからなかったし、結局は選んだクリニックの方針に従うしかありませんでした。事前に詳細な情報があれば、違う選択ができたかもしれません」
体外受精が日本に導入されて約40年。
不妊に悩む人は年々増え、体外受精の実施件数は2021年に約50万件に上った(日本産科婦人科学会)。
従来はほとんどの不妊治療が保険適用外の自由診療として行われてきた。
患者団体であるNPO法人「Fine(ファイン)」の調査(2018年度)によると、通院開始からの治療費の総額が100万円以上という人の割合が56%。
厚生労働省主導で行われた「不妊治療の実態に関する調査研究」(2020年度)では、人工授精の費用は1回あたり平均で約3万円、体外受精は約50万円という実態が浮かび上がった。
後者の調査が行われたのは、2020年秋、当時の菅義偉首相が少子化対策の一環として不妊治療の保険適用拡大の方針を打ち出したためで、2022年4月から人工授精や体外受精などが保険適用となった。
女子栄養大学の石原理教授(提供写真)厚労省の調査に関わった、日本生殖医学会常任理事(当時。現名誉会員)で女子栄養大学の石原理教授は、保険適用の意義をこう語る。
「大きな変化は、金銭的負担の大きい体外受精が『標準治療』として公的に認められたこと。金銭的な後押しに加え、不妊症への偏見がなくなり、『一般的な疾病』として多くの人がトライしやすくなった」
だが患者側は、保険適用がされても、その治療内容がどこのクリニックでも同じとは考えていない。
Fineの2021年の調査で、病院の治療成績の開示を望んでいる患者は94%だが、患者が直近で通った病院のうち情報開示している病院は46%と半分にも満たなかったという。
だからこそ、「治療成績で見分けたい」というのが患者の切実な願いだ。
今回取材した不妊治療経験者からも、不妊治療は体も心も負担が大きいからこそ「患者としては1周期たりとも無駄にしたくない」という声を複数聞いた。
2024年からこども家庭庁のホームページで、患者の年齢層ごとの治療件数や、治療による重要な副作用や合併症の発生件数などが病院ごとに調べられるようになった。
ただし、患者が最も知りたい「妊娠率」や「出産率」といった治療成績は開示されていない。
医療現場の情報の統一化が進まない背景について、石原教授はこう指摘する。
「不妊治療は長らく自由診療として行われてきたこともあり、公的制度の埒外で各医療機関が自主的な判断のもとに行っていた医療だった。新しい治療法が出てくると、十分な科学的根拠が構築される前に、それぞれがどんどん現場に取り入れていく。そのため、採卵、受精、培養といった各クリニックの“秘伝”の部分は独自に発展。その慣習が今も続き、情報の出し方も自己流のままなのです」
実際、各クリニックで出す情報に、どんな違いがあるのか。
年齢層ごとの治療成績もHPで開示通勤者が行き交う駅ビルの目の前。
東京・恵比寿のオフィスビル内にあるトーチクリニックは、透明性の高い情報公開を進めているクリニックだ。
2022年の開業で、自院のホームページに「なかなか妊娠に至らない難治性の患者を除かず、開業以来、全症例を含める “生データ”そのままの妊娠率を開示している」のが売りだと同クリニックの市山卓彦院長は言う。
ホームページの情報によると、トーチクリニックの「移植あたりの妊娠率」(2023年7月〜2024年6月。全年齢の平均。医師が超音波検査で赤ちゃんが育つ袋である「胎嚢」を確認できた時点)は51.9%と、全国平均の37.9%(日本産科婦人科学会、2022年1月〜12月)を大きく上回る。
「25-29歳」「30-34歲」「35-39歲」……と年齢層ごとの治療成績も開示している。
体外受精には、女性から卵子を採りだす「採卵」、精子と卵子を受精させて胚に育成する「培養」、胚を子宮内に戻す「移植」という3つのステップがある。
この体外受精のやり方が各クリニックの違いにつながっているが、医療機関ごとのばらつきが出やすい。
「当院の強みは薬で排卵を誘発してたくさんの卵子を採る技術。患者さんごとに適した数を採る方針で、必要な場合は1回の採卵で20個以上の卵子を採取するケースもあります」と市山院長が言うように、得意とする手法は、排卵誘発剤で卵巣を刺激して多くの卵子を採取する「高刺激法」だ。
一度の採卵で多くの卵子を得られれば良好な胚を獲得できる可能性が高まり、ひいては妊娠率の向上や、胚が余った場合は2人目の妊娠にもつなげられるという考え方に基づく。
採卵に何度も通う通院の負担が減らせることもメリットだという。
ただし、高刺激法は「卵巣過剰刺激症候群」という、卵巣が腫れ、腹水がたまるなどの症状が出る副作用を起こす可能性がある。
同クリニックではこの副作用を出来るだけ予防するため、薬剤の使い方や採卵のタイミングに十分配慮することで、開院から3年近くを経ても重症化による病院への救急搬送は起きていないという。
患者の個別性を見極めて適切な刺激を加える匙加減こそが、長年の経験で獲得する“秘伝”のところだと市山院長は言う。
「具体的には卵の成熟を促すために使用する薬剤の選択と投与量、タイミングの工夫です。脳の下垂体から分泌されるホルモンの値などをみながら、注射を追加しようとか、控えめにしようとか、細かく調整します」
1993年開業と業界トップクラスの歴史を誇る「加藤レディスクリニック」(東京・新宿区)は、開院以来の出生児数が7万人を超え、「1万1332回の胚移植、3716人の出生児」(2024年)と治療実績数や出産数が多く、自院のホームページで公表している。
ただ、妊娠率や出産率はホームページでは公表しておらず、自院の説明会などで伝えている。
加藤レディスクリニックの加藤恵一院長同クリニックでは、主に排卵誘発剤の使用を最小限に抑える「低刺激法」を採用している。
加藤恵一院長は、低刺激法の狙いをこう解説する。
「高刺激法では合併症のリスク回避のため卵巣を休ませる期間がありますが、低刺激法は患者さんの体に優しい採卵なので、必要に応じて休みを取らずに続けて治療を行えるメリットがあります。柔軟に治療のプランニングができることで、いい結果につながると考えています」
低刺激法では1回の採卵で得られる卵子数は数個程度と少なくなる。
そこを補うのが、同院が強みとする培養技術だ。
加藤レディスクリニックで受精卵(胚)の状態を確認する胚培養士卵子と精子との受精操作、胚へ成長させる培養の工程は、施設の医師や胚培養士が管理する。
卵子や胚の活性をうまく保てるかは培養環境が重要になる。
そこで同クリニックでは、顕微授精(顕微鏡で拡大しながら細いガラス管で精子を卵子に直接注入する方法)の技術を習得した胚培養士40名を含む63名という国内最大規模の培養チームを擁し、24時間365日態勢で胚の培養管理を行っている。
同院の2024年の受精率(採取した卵子のうち、精子と結合して受精卵となった割合)は89.5%と高い。
限られた数の卵子から質の高い胚を育成するところに強みがあるという。
「胚培養士が卵子の成熟度や卵子内部にある核の状態、胚の成長スピードや形態を丹念に観察・評価する。最新の高倍率な顕微鏡や24時間連続撮影できる培養装置も使う。一つひとつの卵子や胚に対して最適な顕微授精や凍結のタイミングをチームで話し合いながら見極める。技術の集大成で結果を出します」と加藤院長は胸を張る。
東京・渋谷区にある「はらメディカルクリニック」も歴史が長く、1993年の開業だ。
平均で年間3100件の体外受精実績を持つという。同クリニックでは、年齢層別の成績開示に加え、それぞれの年齢層ごとに「受精卵の状態や質」に応じた妊娠率まで詳細に示している。
たとえばホームページで開示した2023年のデータで「34〜36歳」の欄を見ると、最良好な受精卵で53.8%、良好な受精卵で50.0%の妊娠率と、ケースごとの数字が示されている。
はらメディカルクリニックの宮﨑薫院長同クリニックでは、完全自然から高刺激まで幅広い排卵誘発法を採用。
「最短の妊娠」に向け、初診来院から妊娠・卒業までの「時間」を短縮する最良の方法と考える、中刺激から高刺激法での採卵を多く実施していると宮﨑薫院長は言う。
「周期ごとの発育可能な卵胞(卵子が入っている袋)数や、卵胞を育てる卵巣の反応力の指標、これまでの治療歴などを総合的に判断し、患者一人ひとりに最適な薬剤の投与量や採卵のタイミングをこまやかに調整しています。しっかり成熟した卵子を複数確保することが重要です。卵巣過剰刺激症候群のリスクを抑える工夫では独自の“秘伝”があります」
「当院では、1回の採卵で得られる卵子の平均数が13個と多く、採卵件数自体も多いため、培養士の技術向上につながり、それが高品質な培養室運営の基盤となっている」とも付け加えた。
クリニック間で統一されていない数値これら東京の新旧3クリニックは不妊治療で人気を得ているとされるが、発表している数字は統一されたものではなかった。
取材してみると、それぞれ不妊治療のやり方に独自性があり、また高い治療成績を主張していた。
高刺激派は「妊娠率は採卵数に比例する」と考えており、低刺激派は「強い刺激は患者の体に負担がかかる。採卵数が少なくても高度な培養技術で補完できる」と説く。
不妊治療を望む当事者は、自身にとってどちらがよいのか悩ましいことだろう。
2022年4月に不妊治療が保険適用になった際には、治療方針の転換を余儀なくされた医療機関もある。
保険適用に条件が課されたためだ。
保険適用では条件として、受精卵の移植の回数を40歳未満の人で最大6回まで(子ども1人につき)、40歳以上43歳未満の人で最大3回まで(同)と制限された。
保険の範囲内で行おうとすれば、この回数以内に妊娠を成功させる必要がある。
そのため、採卵で状態のよい卵子を多く採取すべく、「低刺激法の範囲の中で以前より少しだけ排卵誘発剤を使うようになった」(加藤院長)ところもある。
一方で、採卵1回あたりの卵子の数が多い医療機関にとって不利になった部分もある。
卵子の採取・受精・培養・凍結は、いずれも10個を超えるとそれ以上は保険点数が加算されず、そのコストは医療機関の負担となるためだ。
「それでも年齢のリミットがある患者さんの妊娠を最優先したい」と宮﨑院長は語る。
ただ、当事者にとっての問題は、そうした手法の違いもさることながら、統一した基準で治療成績が出されていないことだ。
なぜ統一した基準で治療成績が開示されないのか。
「医療機関のホームページにある治療成績では、分母や分子の定義がそろっていません。
何を基準にするかによって治療成績の見え方は大きく変わってしまいます」そう指摘するのは北海道大学大学院医学研究院の前田恵理准教授だ。
前田さんが2023年に行った調査によると、不妊治療の医療機関は「1回の採卵あたり」や「移植あたり」などそれぞれが異なる分母を用いて治療成績を公開していた。
また、「妊娠率」という用語でも、妊娠検査薬で妊娠反応を確認できた時点や胎嚢を確認できた時点など医療機関によって「妊娠」を定義する時期が違っていた。
そのため、クリニックのホームページの情報から治療成績を単純に比較することは困難だ。
北海道大学大学院医学研究院の前田恵理准教授さらには同じ基準で得られたデータでも、患者の年齢層や合併症の有無によって治療成績が変わってくる。
年齢層だけで見ると、治療の如何にかかわらず、容易ではない現実もある。
日本産科婦人科学会の統計では、45歳以上の女性の体外受精における生産率(出産に至った比率)は、45歳では1.9%、46歳で1.2%、47歳で0.8%……(2022年。全ての胚を凍結する治療は除く)。
年齢が上がるにつれて低下する傾向が明らかにされている。
そのために、治療成績を公開することに慎重なクリニックは多い。
加藤院長もこんな懸念を吐露していた。
「今のように同一の基準がないままで仮に日本の全クリニックで成績の開示が義務づけられたら、どのクリニックも、高齢の患者さんをはじめ、条件が悪い人の治療を受けなくなりますよね。数字が悪ければ、患者さんが来なくなりますから」
前田准教授によれば、情報公開が進む国でも、治療がうまくいきそうな人には治療をするが難しそうな人は断るという「患者選別」が問題となったケースがあるという。
「日本でも、情報開示が義務づけられた場合に、治療の難しそうな患者さんへの治療を好まないクリニックが出てくる可能性があります」
現場のクリニック側が成績公開に慎重な姿勢を示す背景には、個々のクリニックによる定義や患者の状態の違いが一つ。
そして、業界全体としての懸念もある。
届け出た数字を後から操作するような「データ操作のリスク」だ。
前出の石原教授は、こう指摘する。
「かつてイギリスでは、施設経営者が2つのクリニックを運営し、妊娠しやすい患者と妊娠しにくい患者(たとえば高年齢女性)を恣意的に分配して、人為的に片方のクリニックの成績をよいものに見せるという不正があった。日本でも、厳密な管理をしない今の状況のまま情報を公開しても、同じことが起こるでしょう」
そのため、治療開始時から結果までを段階的に記録するなど、情報公開のためのルールづくりも必要になってくるという。
こんな背景から、前田准教授は今後クリニックの情報提供における指針づくりが必要だと考えている。
「現状は医療機関が日本産科婦人科学会に登録しているデータベースがありますが、開示を目的としていません。統一した基準での情報公開を目指すには、データ管理を統括する公的管理機構や法的基盤の整備と、複雑なデータをわかりやすく情報提供する仕組みが不可欠です」
保険適用に伴い、治療に対する患者の期待や関心が高まっている。
誤解を招くような単純なランキングでの比較は避けるべきだが、統一された基準づくりとそれを支える制度の確立は、治療の質向上と患者の適切な選択につながる重要な一歩となるだろう。
参照元∶Yahoo!ニュース