「部品換えるように捨てられない」死刑囚の親が抱える悲痛 究極の刑罰「死刑」巡り求められる「熟議」
「死刑にだけはしてほしくなかった」。
男性が言葉を絞り出した。息子は複数人を殺害し、過去の裁判で極刑が確定した。
執行から既に歳月が経過していた。
男性から話が聞けたのは、36人が亡くなった京都アニメーション放火殺人事件の京都地裁判決で死刑が言い渡された直後。
「究極の刑罰」を巡る実相を描くための取材だった。
予告なしの訪問だったが、記者だと告げると、私を部屋へ上げてくれた。
息子の死刑が確定した後、拘置所で面会を重ね、「できるだけ長い間、生きてほしい」と伝えていた。
改心は伺えなかった。
息子のことは許し難い。
でも「そんな簡単に、自動車の部品を取り換えるようには捨てられない」。
自らが育て、共に暮らした存在だから。
ならば相応の罰とは何か、と私は問うた。
男性は長考したが、答えを口にしなかった。
ただ、もし出所できても面倒を見られないと分かっていた、とこぼした。
死刑執行の報にむなしさがこみ上げたという。
一方、予告なく当日に刑場へ連行されることへの恐怖を想像すると、「息子は、これで安心して休めるな」とも思った。
遺体を引き取り、会場を借りて葬儀を営んだ。
しかし、墓石にも位牌(いはい)にも息子の名前は刻んでいない。痕跡は何も残さない。
「私が彼を思わなくなると、彼は消える」。
墓地に並ぶ地蔵に向けて心の中で息子の名を呼び、「平和に暮らしているか」と語りかけるという。
こうして、わが子が死刑に処された父親の率直な悲痛を伝えることには、賛否が割れるかもしれない。
京アニ事件の一審公判では被害者遺族らの厳しい処罰感情が語られた。
世論の大勢は死刑制度に賛成とされる。
判決後「それでも私は死刑制度に反対する」との見出しで識者へのインタビュー記事をインターネット配信すると、多くの反論が書き込まれた。
死刑を巡っては存置と廃止の立場の間に深い溝が走る。
議論の活発化のためには、できる限り多様な視点が欠かせない。
被害の痛みに最大限思いをはせることは当然だが、「応報の論理」へ一辺倒に傾くことは、論点の幅を狭めてしまいかねない。
遺族とて、立ち位置は一様ではない。
「36人の命を1人の命でまかなえるのか」。
京アニ事件のある犠牲者の親は、取材に語った。
被告の命を死刑で奪っても、犠牲者の命は戻らない。
だからこそ被告は、反省と、模倣への歯止めとなる発信に命をささげるべきだ。
この親が打ち明けたむなしさに、私は、死刑という罰への重い問いかけを見いだしている。
京アニ事件の審理は控訴審へ続く。
死刑を巡って検察側と弁護側が再び対峙(たいじ)するだろう。
私たちにもまた、熟議の機会が訪れる。
参照元∶Yahoo!ニュース