日本飛込史上初の五輪メダル 玉井陸斗選手の才能見い出す

銀メダルをイメージした画像

高さ10メートルから飛び込む競技、高飛込。

2024年パリ五輪で、兵庫県宝塚市出身の17歳(当時)、玉井陸斗(たまい・りくと)選手が日本飛込史上初の五輪メダル、銀メダルを獲得した。

そのメダルを何より心待ちにしていたのが、玉井選手の才能を見い出し、飛込の世界へ誘った、馬淵かの子さん(86歳)だった。

銀メダルを首にかけてもらってから、わずか4ヶ月。

1月4日、“飛込界のレジェンド”は天国へ飛び立った。

馬淵(旧姓:津谷)かの子さんは1938年1月6日神戸市生まれ。

松蔭女学校で飛込競技を始め、1954年、16歳でアジア大会に初出場。

1956年メルボルン五輪から3大会連続で五輪に出場した。

1964年東京五輪当時、馬淵さんは“全盛期”。「メダルを獲れる自信があったし、獲れる状態だった」と話す。

ところが、“事件”が起きた。

女子飛板飛込は開会式の翌日(1964年10月11日)。

“日本のメダル第1号”を見ようとする観客で会場は超満員に。

日本選手で最初に登場した馬淵さんの名前がコールされた瞬間、大歓声が鳴り止まなくなった。「審判長の笛が(大歓声で)聞こえないんですよ。みんな飛び込みを見るのは初めてだから、飛ぶ前は静かにしないといけないのをみんな知らなかった。『がんばれ、がんばれ』と応援されすぎて、脚が(固まって)ガクガクになってしまった」

やっと歓声が静まり、馬淵さんは一番簡単な技を飛んだが、大きな水しぶきがあがり失敗。

1本目のミスを挽回できず、7位に終わった。

馬淵さんは36歳まで現役を続け、引退後は指導者となった。

夫の馬淵良さんとJSS宝塚を設立し、自分が手にできなかった五輪のメダルを夢見て子どもたちを指導した。

1989年に中国・上海出身のスウ・ウェイさん(1998年日本国籍を取得、馬淵崇英さんに)をコーチに招き、飛込の本場、中国式の指導で、寺内健さんらを五輪選手に育てた。

しかし、五輪のメダルには届かない。

それでも。

来る日も来る日も水着を着て、こどもたちを教え続けた。

馬淵さんはいつしか、こう語るようになった。

「私、五輪のメダルを見るまでは死なれへん」

そんなとき、JSS宝塚に、地元・宝塚市の小学1年生の男の子が飛込の体験教室にやってくる。

馬淵さんは、光り輝く原石と出会った。

それが玉井陸斗選手だった。

玉井選手に毎日、飛び込みの基礎を教え、小学5年生からは辰巳楓佳コーチ、中学1年生からは馬淵崇英コーチが指導し、玉井選手は世界のトップレベルへの階段をかけあがっていった。

パリ五輪が4ヶ月後に迫った去年4月、馬淵さんは久しぶりに玉井選手に会った。

(馬淵さん)「陸斗、五輪は頑張ったら失敗するねん。いつもどおりしたら勝てるからな。」

(玉井選手)「はい、がんばります」

(馬淵さん)「(苦笑)だから、がんばったらあかんって」

(玉井選手)「はい。いつも通りします(笑)」

60年前の東京五輪で、観客の雰囲気に飲まれてしまった悔しさが、「いつもどおり=平常心が大切」というアドバイスになった。

2024年8月10日パリ五輪、男子高飛込決勝。

玉井選手は3位で迎えた最終6本目、大きなプレッシャーがかかる中、難易度の高い技、5255B(後ろ宙返り2回半2回半ひねりエビ型)を完璧に決めて銀メダルを獲得。

神戸市内でテレビ観戦していた馬淵さんの長年の夢が叶った。

パリから帰国した玉井選手は、馬淵さんの元へ駆けつけた。

銀メダルを首にかけてもらった馬淵さんは、玉井選手の手を握り、「ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう!」と何度も何度も感謝の言葉を繰り返した。

夢の五輪メダルがやっと目の前で見ることができた。

しかし、それから数日後、馬淵さんの体に異変が起こる。

急に体調を崩し、顔に黄疸がでた。

「膵臓がん」だった。

闘病生活で入退院を繰り返したが、去年の年末に肺炎にかかり、1月4日、馬淵さんは天国に旅立った。

夢を叶えてから、わずか4ヶ月後だった。

選手として叶えられなかった夢を、指導者として50年以上追い続けて叶えた。

60年前の東京五輪の“怨念”を胸に抱き、人生の炎を燃やし続けて、最後に手にしたメダル。

こどもたちを愛し、愛された馬淵さん。

“飛込界のレジェンド”が逝った。

参照元∶Yahoo!ニュース