元自衛官の異色漫画家、長く過酷な下積み生活 3度も連載直前で白紙に 38歳でつかんだヒット作
自衛隊を題材にした漫画『ライジングサン』シリーズは現在も連載が続く人気作品だ。
臨場感あふれる描写に引き込まれる読者も多いが、そのリアルさは、藤原さとし先生のキャリアが元自衛隊員だったことに由来する。
苦労して生み出した『ライジングサン』の誕生までには長い下積み時代があった。
自衛隊を辞めて、漫画家の道を進むことを決意した藤原先生だったが、そこから『ライジングサン』誕生までの道のりは長く険しいものだった。
すでに漫画家になっていた幼なじみの友人からのアドバイスもあり、初めて描いた漫画を小学館のコンテストに応募。
見事に入賞し、当時の編集者に誘われる形で漫画家としての活動をスタートさせた。
だが、トントン拍子で進んでしまったことが苦労の始まりだった。
「最初に送った漫画で賞に入って、時代も良かったので、いろんな雑誌に掲載されたんです。『漫画家ちょろいな』と心のどこかで思っちゃったんですよね(苦笑)。そこから僕の地獄の日々が始まりました。でも、苦労せずに一人でずっとやっていたら僕はもう漫画家をやっていないと思うので、結果的には良かったなと思っています」
当時はネット環境も整っておらず、漫画家になるのであれば上京するのが当たり前の時代だったが、藤原先生は大阪の実家で漫画を描き続けていた。
「実家でご飯は親が作ってくれて、地元の友人には『漫画家すごいね』とチヤホヤされて、良い気分になっているという1番クズみたいな時代でした。そうこうしている間に、自分を拾ってくれた担当の方が変わってしまいました。僕みたいな新人と一緒にやっていこうと思ってくれる人が担当になるとは限らないわけで、まさにそのパターン。『藤原はどうしたいの?東京出てこないと話にならないよ』と言われちゃいましたね。親が反対していると思って、わざわざ大阪の実家まで説得しようと来てくれたこともありました。でも僕は、親が反対しているとは一言も言っていなくて(笑)。その後も先延ばしにしていたんですけど、『東京に出てこないんだったら諦めたほうがいいよ』と言われたことで、即答で『行きます』と上京しましたね(笑)」
紆余曲折を経ながらも、漫画家としての活動を始めた藤原先生だったが、上京直後には、印象的な出会いが待っていた。
「上京して仕事も無いだろうからと紹介してもらったのが山本英夫先生のアシスタントでした。そこで働くまで1か月ぐらい時間があったので、その間はヘルプでいろんな先生のところに行っていました。そんな時に僕が自衛官だったと聞いて、他雑誌でしたが、板垣(恵介)先生から『来てほしい』と声を掛けられたんです。小学館の担当の方も驚いてましたね。『板垣先生は断れない』って(笑)。 板垣先生のところは、朝4時集合で、原稿が上がるまで先生がやり続けるんです。『漫画家の世界ってこうなんだ』と実感しましたね。でも、板垣先生が特別だっただけでしたね(笑)。自衛隊っぽい雰囲気も少しあって、僕にとっては居心地が良かったですね。板垣先生は元自衛官で空挺出身。それで漫画家として成功されていたので、『元自衛官でもやれるんだ』と勇気をもらいました。 最後は給料を手渡ししてくれました。その時に『ところでお前いつからウチに来れるの?』って誘ってもらえて。ありがたいお話でしたが、山本先生のもとで働くことが決まっていたので、不義理できないと思って、板垣先生には後日電話でお断りさせてもらいました」
その後、山本先生のもとで修行を積んだ藤原先生。
約9年間、同先生のもとでアシスタントとして働き続けた。
「僕はいつまでも絵がうまくならなかったですね。同年代の花沢健吾くんがアシスタントで入ってきて、いきなり僕より大きなコマを任されていました。悔しかったですね。でも、本当に彼は絵がうまいんですよ。すでにデビューも決まっていたので、『そりゃ漫画家になるよな』と納得でした。その頃の僕は全然ダメでしたね。持ち込みもしていたので、3回ほど連載の話をもらったりもしたんですよ。3年に1回のペースでしたね。でも、連載を打診してくれた編集さんが急に飛んでしまったり、担当さんの熱量が急変したり……。ことごとく全部白紙になって、『連載はもう無理なんだろうな』と心が折れかけてましたね。 山本先生のところを辞めた頃、先生から『実録系の漫画の描き手探してるよ』と紹介してもらってそういった仕事を受けていました。原稿料をもらえてどうにか生活はできるという期間を2年ぐらい続けていました。でも、描く内容が凄惨(せいさん)な話ばかりで、心は病むし、単行本になるわけでもないので、生産性がないんですよ。自分が描きたい作品でもなく、ただ生活のために描いているだけ。結婚して子どもがいたので、『バブバブ』言っている顔を見ながら『我慢しなきゃ』と思って描いていました。本当につらい日々でしたね。漫画を描けることは幸せだけど、自分の望んだ形ではなかったです」
その後、このままではダメだと感じ、「これで無理だったら漫画家を辞めよう」と覚悟を決めた。
「自分の漫画を描くために、背水の陣で一度だけ仕事を断ったんです。そしたら、それ以降まったく仕事がこなくなっちゃいましたね(笑)。自分の漫画を描いて、掲載することもできたのですが、読み切りだったので、その後数か月は無職みたいな生活で貯金を切り崩しながらやっていました。最後の最後でどうせ辞めるんだったらと、東京中の出版社を全部回りました。その時、少年画報社に実録系の不良漫画を、原作者の方と一緒に持ち込みに行ったんです。そしたら『今後は藤原さんが単独で持ってきてください』と言ってもらえたんです。ちょうどその頃に、新潮社の『コミックパンチ』で『泣く男』が前後編で掲載されました。これも担当さんが飛んで、掲載されたのは当初の予定から1年遅れだったんです(笑)。それを見てくださった画報の編集長から『連載で続編を描きませんか?』と声を掛けてもらえたんです。『ハイエナ』が連載されて、ようやく初めて漫画家と言えるようになりましたね。でも、隔月雑誌だったこともあって、それで飯を食えるほどではなく、いよいよ『後10回で連載終了』と宣告されてしまいました」
そんな後もない時期の出来事だった。
当初から自衛隊を題材にした漫画を描きたいという思いを抱いていたが「時代が必要としていない」と諦めていた。
しかし、東日本大震災をきっかけに世間の自衛隊に対する目が徐々に変化していた。
「どうせなら最後に自衛隊の漫画を描きたい」と思い始めた頃、運命的な出会いが待っていた。
「その頃に、花沢くんが結婚したんです。お金もなかったので、結婚式に行くかも悩んだのですが、仲も良かったですし、義理ごとはちゃんとしなきゃと思って、参加しました。そこに山本先生もいらっしゃったので、あいさつしたら、双葉社の編集の方を紹介してくれたんです。最初は僕に興味なさそうにしていたのですが、山本先生が気を遣って『元自衛隊だよ』と伝えると、『自衛隊モノを描こうと動いている編集がいるから紹介しますよ!』と食いついてくれたんです。そこで紹介してもらった方が『ライジングサン』の初代の担当でした。結婚式に参加して本当に良かったですね。行ってなかったら人生が変わってました(笑)。その編集さんと初めて会った時、それまで自衛隊漫画で成功した事例が『右向け左』しかないという話になりました。『藤原さんはどんな自衛隊モノが描きたいと思っていますか』と聞かれて、僕は『ド直球の青春漫画を描きたいです』と伝えました。すると、『僕も全く同じ意見です。一緒にやりましょう』と。僕の漫画家としての背骨を作ってくれた人でしたね。絵の描き方のテクニックや漫画の作り方、リアルに描くことを『ライジングサン』では意識していたので、そこに対しての議論もたくさんしました。締め切りギリギリでネーム全ボツとかもありましたね(笑)。でも、厳しくしてもらえたおかげで、目標だった重版も早々に達成することもできました」
『ライジングサン』を通して伝えたいことがあるという。
「メッセージ性を持たせると説教臭くなってしまうので、あくまでも読者の人たちに感じてほしい」と前置きしつつ、口を開く。
「僕は昔の自衛隊にいた人間で、世の中から笑われるような立場だった時代を知っているんです。僕も高校生の時に『自衛隊に入ります』と言ったら、みんなに笑われました。でも今は、東日本大震災などを経て、自衛隊への世間の見方も変わってきていると思うんです。この作品を通じて、自衛隊の人も普通に生活を送っている人たちと何も変わらないということが届けばいいなと思っています。何かと責められてしまうことの多い自衛隊員ですが、本当に一生懸命に日々過ごしている人たちがいるということを、この作品を通して少しでも多くの人に届けられればいいなと思っています」
自衛隊時代の同期も『ライジングサン』を読んでいるようだ。
「同期には自衛隊の特殊部隊で頑張っているヤツもいて、『俺の横におるやつが藤原の漫画読んで、ファンや言うとるぞ』って電話くれますね。『お前は読んでんのか?』って聞いたら、『読んでへん。どうせお前が描く漫画なんてつまらんやろ』みたいな(笑)。みんなツンデレなので、僕がいないところではいろいろ言ってくれてるみたいですけどね。うれしいです」と頬を緩める。
20歳で自衛隊を辞めて、漫画家の道を志し、ヒット作『ライジングサン』と巡り合った頃には38歳になっていた。
15年以上もの長い期間、下積みを経験してきた。
それでも折れずに頑張れた理由は家族の存在だった。
「子どもの存在が大きかったです。僕が漫画家になって、お金を稼いで子どもたちに可能性の選択肢を増やしてあげたかったんです。一発逆転ではないですが、何の才能もない僕がそれをかなえようと思ったら『漫画をやるしかない』と腹をくくったんです。 下の子も大学生になったので、ようやく肩の荷が降りました。ここからが僕の人生だと思っています。アシスタント時代に、同世代がデビューしていく姿を本当にたくさん見てきました。『なんで僕じゃないんだ』と嫌というほど感じてきました。当時は子どもも小さかったので、どう頑張っても彼らより漫画と向き合う時間が少なかったんですよね。なので、『子どもが大きくなってからが僕の番だ』と考えるようにしていました。実際、周りの人たちは、今まさに子育ての時期で『手が掛かる』と言っていたりしますね。人生は順番なんですよね。僕は先にそれをやっただけ。その間は腐らずに『いつかどうにかなるから信じるしかない』と耐えてきました」
いくつものターニングポイントを経験してきた漫画家人生。
「結果的には山本先生のところで良かったなと思います」と20年以上前の出来事を振り返る。
「山本先生の作品は僕が描きたい漫画と全く違いました。僕の場合はそういった環境でイチから学べたことで、幅が広がったなと思っています。板垣先生のところに行っていたら、今みたいにはなれなかったかもしれないですね」。
『ライジングサン』はヒット作となり、今では続編の『ライジングサンR』が「漫画アクション」(双葉社)で連載中だ。
さらなる次のビジョンも思い描いている。
今後については、「あまり注目されることのない、縁の下の力持ちでのような人にフォーカスすることが好きなんです。歴史の中でもそういう人ってたくさんいると思うんです。もし描けるなら、幕末志士の赤禰武人(あかね・たけと)という人を主人公に描いてみたいですね。若くして裏切り者として殺されてしまった人なんですけど、そこを少し漫画的に脚色して、『実はこうだったんじゃないか』というファンタジーを織り交ぜて描いてみたいですね」
参照元∶Yahoo!ニュース