「展示会は未来をつかむ場」デザイナーが挑む復興支援ブースとは?

デザイナーをイメージした写真

「東日本大震災のときは自分がどん底で、支援なんてとんでもない。余裕が一切なかった。でも、いまはできる」。

そう語るのは、展示会ブースデザイナーの竹村尚久だ(54)。

東京ビッグサイトや幕張メッセなどで開かれる国内有数の展示会で、数々の注目ブースを手がけてきた。

いまやその名を業界で知らぬ者はいないが、かつては仕事もなく、借金に苦しむ時期もあった。

そんな苦境を乗りこえた竹村が2024年夏に挑んだのが、能登半島地震からの「復興支援ブース」だ。

石川県の伝統工芸品の展示を手がけてきた竹村にとって、石川は特別な場所。

9月に開かれる国際見本市「東京インターナショナル・ギフト・ショー」に向け、被災した出展者とともに能登の未来を切り開くブースをつくる。

「諦めなければ立ち直れる」。

自らの経験を胸に奮闘する竹村を追った。

展示会場のなかで異彩を放つ真っ白なブース。

壁に書かれた「がんばろう、いしかわ」の文字。

「少し上の位置に掲げてみたんです。希望ってちょっと上を見上げるから、『あっ、がんばろうかな』って思ってほしくて」

半年かけて手がけたブースを見つめながら、竹村が語る。

展示会ブースデザイナーは、会場内のブースを設計・製作する専門家だ。

一般にはあまり知られていないが、各社が製品PRにしのぎを削り、バイヤーとつながる重要な場である展示会(ビジネス商談会)の成否を陰で支えている。

2023年には国内で雑貨、食品などあらゆる業種で882件の展示会が開かれ、出展者数は101,147社・団体、総来場者数は9,647,380人にのぼった。(株式会社ピーオーピー調べ)

竹村はそうした激しい競争の場で数々の注目ブースを手がけ、出展者からの信頼も厚い。

短期間で客を集めなければならない展示会では、インパクトの強いカラーや派手なオブジェで来場者の目を引くのが一般的だ。

しかし、竹村のブースはそれとは逆に、真っ白でシンプルなのが特徴。

彼が手がけると集客数や成約額が大幅に増え、展示された商品がルーヴル美術館に置かれるようになったこともある。

「展示会はわずか3日間だけど、皆さん社運をかけて臨んでいる。だから絶対に成功させなければいけない」

展示会は、企業にとってチャンスである一方、出展し続けるのは簡単ではない。

最も小さい1小間と呼ばれる3メートル四方のスペースでも出展料は約50万円。

ブース装飾費、販促資料制作費、人件費、交通宿泊費などを加えれば、すぐに100万円をこえる。

大規模なブースになれば、3日間で数千万円になることもある。

竹村が支援する中小企業では、ほとんどが予算やスタッフに限りがある。

優れた製品があっても、知名度が低ければ客が足を運んでくれる保証はない。

成果が出なければ次の出展は難しくなり、PRの機会を失う。

そうならないよう、竹村はブースの設計だけでなく、商品の陳列、キャッチコピーの考案、壁面の資料作成、スタッフの服装、ブース内での立ち位置に至るまでトータルでサポートする。

生産現場にも足を運び、企業の特徴や製品にかける思いに耳を傾け、企業自身も気づかない「本質的な価値」を展示に反映する。

こうして唯一無二のブースが生まれていく。

年間200社以上のブースを手がける竹村だが、石川には特別な思い入れがある。

輪島塗、九谷焼、山中漆器、加賀友禅など世界に誇る技術を持ちながら、費用や人手の問題で出展が難しい中小企業や職人を支援するため、2019年から「石川県ブース」の製作を続けてきたからだ。

2024年1月の能登半島地震で、竹村の頭に真っ先に浮かんだのは一緒に出展してきた彼らの顔だった。

幸いなことに皆、命は無事だったものの、自宅や工房が被害を受けた人は少なくない。

高齢の職人の中には、引退や廃業を余儀なくされた人もいた。

「そんな彼らのために何かできないだろうか。目標があれば、前に進めるはず」

そう考えた竹村は、今年の石川ブースを「復興支援ブース」とすることにした。

少しでも前向きな気持ちを取り戻し、再起への第一歩を踏み出すきっかけにしようとしたのだ。

目指すのは9月の国際見本市「東京インターナショナル・ギフト・ショー」。

日本最大級の展示会で、国内外から百貨店や有名店のバイヤーが集まり、3日間で約20万人が来場する。

6月のある日、竹村は車で石川県輪島市に向かっていた。

金沢と能登半島を結ぶ「のと里山海道」で3時間の道のりだ。

「来るだけで疲れたでしょう」

迎えてくれたのは輪島塗職人の升井克宗さん(66)、佳美さん(64)夫妻。

2人は石川ブースに22年から出展しており、「現地の状況を知ってほしい」と案内役を買って出てくれた。

最初に見せてくれたのは輪島市河井町にある自宅兼工房だ。

父の代からの仕事場だった木造2階建ての建物が、地震で押しつぶされたままになっていた。

「気づいたら天井が頭の上に来ていた。『どうして天井が上に』と思ったけど、2階が落ちてきたとわかって、『これはまずい。もしかしたら出られんな』と」

1月1日午後4時6分、居間でテレビを見ていたら1回目の震度5強の揺れが来た。

テレビに速報が流れ、「震度5だね」と言った次の瞬間、再び強い揺れに襲われ、2人はこたつの下に潜り込んだ。

揺れがおさまった後に見上げると、柱が折り重なった隙間にうっすらと光が見えた。

升井さんは30分かけてがれきからはい出て、助けを求めたという。

「地震になるとテレビが飛ぶと聞いていたけど、本当に飛んだ。怖くて体が動きませんでした」と佳美さん。携帯が鳴っているのに手が届かなかった。夜になってようやく知人の携帯から息子の携帯に連絡できた。「『亨宗(ゆきむね)、お母さんだよ』と伝えた瞬間、息子が号泣しました。携帯がつながらなかったので、もう死んだのだろうと思っていたんでしょうね」。

避難所暮らしを続けたが、自宅に戻っては散乱した漆や道具、商品を少しずつ拾い集め、5月には仕事の再開にこぎ着けた。

いまはみなし仮設のアパートで新たな生活を始めている。

升井さんは、父と同じ呂色師(ろいろし)として漆器の最終仕上げをしてきた。

漆の塗膜を炭や砥石で磨き上げ、鏡のような深いつやを生み出す輪島塗特有の職人だ。

父から技術を受け継いだ1982年は、工房に山積みされた商品が廊下にあふれることも珍しくなかった。

百貨店の正月商戦に間に合わせるため、夏祭りが終わってからは夜遅くまでの作業が続いた。

だが、季節の行事離れなどにより、輪島塗の需要は徐々に減少。

後を継ぎたいという息子にも「食べていけない」とはっきり伝えた。

升井さん自身はその腕を買われ、ハイブランド漆器の仕上げなどを続けたが、震災で工房を失い、呂色師としての仕事を断念。

今は輪島塗の技術を生かしたアクセサリーづくりをしている。

ひと珠ずつ国産の天然漆で手塗りした商品の評判はよかったが、朝市に卸していた5軒の店は地震直後の火災で全焼。

復興ブースに出展し、新しい販路を開拓することが再出発の一歩となると信じている。

輪島から東京目黒の事務所に戻った竹村は、復興支援ブースの製作に取りかかった。

ブース内の一角に「復興REPORTエリア」を設け、能登の現状と未来への可能性をバイヤーたちに伝えることにした。

背景には、出展者たちの切実な声がある。

「工房が倒壊して生産の場がない」

「輪島塗は分業制だが、仲間が辞めてしまい新たな人を探さなければならない」

「能登の風景が変わってしまいショックが大きい。心と手仕事は連動しているので影響が出ている」

竹村が被災地で耳にしたのは、それぞれが抱える深刻な現状だった。

共通するのは「お涙頂戴にはしたくない。でも、現実を伝えてほしい」という訴えだ。

「石川の人たちは初対面だと入りづらいって言われますけど、僕は初めからすんなり受け入れてもらえて。穏やかで優しい人たちが多いんです」と竹村。

竹村が石川ブースを手がけたきっかけは、にぎわいを生む彼のブースに興味を持った石川県産業創出支援機構の担当者が声をかけてきたことだ。

それから5年。

竹村の手で集客数は飛躍的に増え、商談件数と成約金額も大きな成果を上げている。

地震に襲われたのは、コロナ禍を乗りこえ、落ち着きを取り戻し始めた矢先だった。

竹村は話す。

「現地を見て、復興には思った以上に時間がかかると感じました。今年だけで終わらせず、1年、2年、その先を見据えて支えていかなければならない」

これまで地域の製品を朝市など県内の観光地で販売する「地域内完結型」で成り立っていた事業者にとっては、地震の影響による観光客の減少や地域経済の停滞により、従来の販売方法だけでは生計を維持することが難しくなる。

今後は地域の枠をこえ、販路を外にも開いていかなければならない。

だからこそ「この場を、外に向かうきっかけの場にしなければ」と竹村は感じていた。

そのため、出展者向けにセミナーを開き、200ページ近いプレゼン資料をもとに、ブースデザインの基本原則からターゲット店舗の設定、商品を際立たせるための照明の角度や配置まで成果を出すためのノウハウを惜しみなく伝えた。

金沢に1週間泊まり込み、被災した事業者を含む27社すべての出展者に展示方法を個別に指導。

輪島にも3度足を運び、職人たちの近況を自分の目で見て回った。

竹村の並々ならぬ熱意の源には、自身の挫折と再起の経験がある。

幼い頃、父の仕事で転居を繰り返していた竹村は、家の間取りを忘れないようにと図面を描いていた。

そんな姿を見た父のすすめにより大学で建築を学び、その面白さに魅了された。

卒業後は大手ゼネコンに入社し、一級建築士として都内の有名駅や高層マンションの企画・設計などでキャリアを積んでいった。

ところが、32歳で大病を患い、生死の境をさまよった。

回復すると一念発起してインテリアデザイン事務所を開いたが、待っていたのは仕事のない日々。

やがて、自身の給料どころか固定費の支払いもままならなくなった。

「ある日、母親とたわいもない電話をしていたら、糸が切れたように泣いてしまって。親に涙を見せたことがなかったから、何事かと両親と弟が駆けつけてくれて。いまは笑えるけど、当時は本当に追い込まれていて」

2011年の東日本大震災の時は、自分の生活に精一杯で、被災地を支援する余裕などなかった。

そんな竹村の転機となったのは、「展示会の1小間2小間の小さなブースをデザインする人がいない」と知人から声をかけられたことだった。

それまでは年に1、2回手がけていたが、家族を養うためこの仕事に本格的に取り組むことにした。

最初はあまり乗り気ではなかったが、設計したブースで出展者がうれしそうにする姿に、「自分が役立てる場所はここだ」と思うようになった。

毎月数千社にダイレクトメールを送り、毎週のように展示会に通い各社のブースや来場者の動きを徹底的に研究した。

数日間で“作っては壊す”が繰り返される展示会業界では、同じデザイナーであっても建築やインテリアの業界と比べるとブースデザイナーの立場は弱い。

設計通りに作られないことも少なくなかった。

それでも施工職人たちと密にコミュニケーションを取り、企業にとってのブースがいかに重要かを説き続けながら信頼を積み重ねていった。

「諦めずに前に進んできたからこそ今がある」

竹村が復興ブースに向ける思いもそこに重なる。

展示会の開幕までひと月を切った8月、竹村の取り組みは佳境を迎えていた。

竹村の図面をもとに作られた模型には、27社の展示台、引き出し、タペストリー、壁面グラフィックなど細かなこだわりがすべて反映されている。

竹村は模型をのぞき込み、ミリ単位の調整を重ねながらデザインの細部を詰めてく。

「復興REPORTエリア」には「今とこれから」と名付け、復興の動きをテーマにした輪島の若手ネットワークの誕生や仮設工房の完成など、6つのテーマに分けて、能登地域で始まってる新しい動きを竹村自身が能登で見て、聞いた情報を写真とともに詳細に書き込んだ。

本番直前まで徹夜も辞さずに検討を繰り返した。

そして迎えた9月4日の開幕。

27社が出展した全長30メートルの石川県ブースは、地震の影響を感じさせない熱気に包まれた。

竹村渾身の特設スペース「今とこれから」には、足を止めて真剣に見つめる人々の姿があった。

升井夫妻の展示ブースにも美しい商品が並び、客が次々と足を止めた。

慣れないながらも商品説明をする2人の姿には、確かな手応えと喜びがにじんでいた。

「展示会を目指せばこれから何か繋がっていくのかなって。体が動く限り続けたいので今日まで頑張るのが目標。」

夫妻が手がけたアクセサリーは、東京の百貨店など複数からポップアップイベントの打診を受けたほか、来場したバイヤーや同じブースに出展していた事業者から新規のお店を紹介されるなど、新たな販路が見え始めた。

竹村もその成功を心から喜んだ。

「展示会は未来をつかむための場所。家に帰ったら落ち込んでしまうかもしれないけど、この場にいるうちは前向きになれる。だから僕はそういう気持ちになれるブースを作らないといけないと思ってる」

竹村が半年かけて作り上げた復興ブースは3日間の役割を終え、その姿を消した。

だが、その場に生まれた希望は、確かに残っている。

参照元:Yahoo!ニュース