ノーベル平和賞「最後の追い風」に 原爆に家族奪われた被爆者女性、米国憎み核兵器廃絶訴え続け きょう授賞式へ

原爆ドームの外観を撮影した画像

広島で被爆した木村緋紗子さん(87)=仙台市=が10日、ノルウェー・オスロである日本被団協へのノーベル平和賞授賞式に出席する。

原爆で命を絶たれた父の無念を胸に刻み、運動してきた。

「つらく、悔しい」。

ほかの誰にも同じ思いをさせまいと、核兵器も戦争もない世界を求める。

被団協の代表団に加わる木村さんは8日夜、オスロに到着した。

12日までの滞在中に証言活動も予定。

「思いっきり訴えたい」と意気込んだ。

あの日、爆心地から1.6キロの広島市大須賀町(現南区)にあった祖父の別宅にいた。

袋町国民学校(現中区の袋町小)2年の8歳。

大きなけがはなかったが、外にいた祖父は皮膚がむけ、うめいていた。

内科医の父山縣貞臣さん=当時(42)=は爆心地から700メートルの堀川町(現中区)の自宅付近で大やけどを負った。

3日後に母が郊外の病院で見つけたが、顔が赤く膨らんでいた。

その夜、「無念でならぬ」と言い残して逝った。

「どんなに熱かったか」。

父を語ると今も涙がこぼれる。

祖父も6日後に死去。

臭いやうじ虫があまりに強烈で「早くあの世に行ってほしい」と思ったのを後悔している。

裕福だった暮らしは一変した。

4人の子を抱え、働いたことのなかった母は化粧品を背負って瀬戸内の島で売り歩いた。

休ませたい一心で料理、洗濯、掃除を自らこなした。

「学校から帰ると家事。子どもではなくなったみたいだった」

原爆を落とした米国を憎んだ。

米兵にチョコレートをせがむ気にならず近づかなかった。

つらい時は父の墓へ。

泣いて話しかけると「分かったよ」と言ってくれた気がした。

兄弟の進学を機に一家で上京。

母と被団協運動に加わった。

結婚して仙台市へ。

「子どもに同じ苦労をさせたくない」と、1990年ごろ、宮城県原爆被害者の会事務局長に就いた。

原爆被害への国家補償を求めてデモに参加。

原爆症認定集団訴訟も闘った。

2005年から3度、核拡散防止条約(NPT)再検討会議に合わせて訪米。

証言に感謝してくれた米国人学生との出会いがきっかけだった。

「聞く耳を持つ人もいる。憎んでばかりでなく説得しよう」。

それでも10年のニューヨークでの集会で吐露した。

「父に会いたい。父を返せ」

被害者の会の会長となり、2世や市民団体の力を借りて毎夏の追悼式と原爆展を続ける。

平和賞受賞を「最後の追い風」と感じる。

「世界の人と一緒に運動をするきっかけにしたい。できなかったらそれまでよ」

参照元:Yahoo!ニュース