ミャンマー軍事クーデターからまもなく4年、日本に住む難民申請者のその後 「緊急」措置から取り残された男性と、介護現場で働き始めた女性
ミャンマーで軍事クーデターが起きたのは2021年2月。
当時、出入国在留管理庁(入管庁)は、日本に住むミャンマー人に在留資格を認める「緊急避難措置」を打ち出した。難民申請者についても審査を迅速に進め、難民と認定されなくても在留や就労を認めると明らかにした。
「緊急」とうたわれた措置は、その後、どうなったのか?かつて取材した2人の難民申請者を訪ねた。
「イチ!ニ!サン!」
日曜日の夕方、都内のマンション集会場に号令が響く。
突き、蹴り上げ、受け身、大車輪…。
少林寺拳法の稽古に汗を流す6人の「拳士」は、いずれもミャンマーの人たちだ。
その中に白の道衣に黒帯を締めたマウンさん(仮名)の姿があった。
「前後のうねり、上下の動きをしっかり」。
日本人の先生が、実演を交えて丁寧に指導する。
普段、温厚なマウンさんの表情は真剣そのものだ。
マウンさんは40代半ば。
日本に来て22年を超えた。
軍事政権に抗議して民主化運動に参加してきた。
難民と認められず、現在は5回目の申請中だが、退去強制令書が出て、一時的に収容を解かれる「仮放免」の立場にある。
仕事に就くことは禁じられ、健康保険にも加入できない。
マウンさんは語る。
「友達や仲間は、みんな(緊急避難措置で在留資格が)認められた。人生の半分を日本で暮らして、日本のルールを守っている。なぜ僕だけが…。悲しい」
ミャンマーで軍事クーデターが起きたのは2021年2月。
入管庁は同年5月、日本に住むミャンマー人に対する「緊急避難措置」を発表した。
ミャンマーの情勢不安を理由に、希望する人には在留や就労を認めることとした。
難民申請者についても「審査を迅速に行い、難民該当性が認められる場合には適切に認定し、不認定でも緊急避難措置として在留や就労を認める」、また「不法滞在中であっても、在留特別許可が相当な方には緊急避難措置と同様の対応をとる」との方針も示した。
入管庁によると、23年12月末までに約1万5000人に「特定活動」の在留資格が与えられた。
ところが、この中にマウンさんは含まれていない。
昨年も取材したが、そのときと状況はまったく変わらない。
理由は、マウンさんの難民申請に結論が出ていないからだ。
マウンさんが5回目となる難民申請をしたのは22年7月、その年の11月には難民調査官のインタビューを終えた。
2年たつが自分の審査はどうなっているのか、なぜ長引いているのか、皆目わからない。
マウンさんは言う。
「何もできない。ただ待つだけ。待つしかない」
一体、「迅速に審査」は、どこに行ってしまったのか。」
マウンさんが難民認定を求めた裁判で、代理人を務めた渡辺彰悟弁護士(全国難民弁護団連絡会議代表)は「確かにほとんどのミャンマー人が緊急避難措置によって救われたが、忘れ去られたかのような古い申請者がいる。在留資格がないので、本人にとっては非常につらい。放置されていることは、国際法である自由権規約が禁じた“非人道的なもしくは品位を傷つける取扱い”にも匹敵する」と指摘する。
そのうえで「マウンさんは既に裁判まで起こしているので、あらゆる事情を入管もわかっている。結論さえ出してくれればいいだけ」と語った。
いま、マウンさんは3カ月に1回、「仮放免」の更新のため東京出入国在留管理局(東京港区)に出向いている。
今年8月の手続きの際、入管職員が放った言葉にショックを受けたという。
「6月でルールが変わった。難民申請が3回の人は、すぐに返すことができる。知っていますか?」
今年6月、改定入管法が施行され、3回以上の難民申請者は申請中であっても強制送還が可能になった。
だが、軍事政権と少数民族や民主派武装組織との戦闘は激化し、情勢に好転の兆しはない。
国軍は徴兵制の実施を発表、国民に武器を向けたくない若者が国外に出るなど離反していると伝えられる。
「帰国すれば迫害される」と訴えるマウンさんに、「国に返せる」と言ったのだとしたら、何の意味があるのだろうか。
自分で働いてお金を稼ぎ生計を立てることができない…、それは人としての尊厳を奪われたも同じだ。
少林寺拳法の稽古は、先の見えないつらい日々を、ほんの一瞬忘れさせてくれる大事な時間になっている。
マウンさんの仮放免の保証人で、よき理解者でもある先生が語る。
「お国が大変な時期なので、みなさんとコミュニケーションをとって楽しめることが大事だと思う」
「もし在留資格が得られたら…」、そう尋ねると、マウンさんは答えた。
「軍事政権を倒して新しい政府ができるまでには、まだ時間がかかると思う。自動車の整備の専門学校で勉強して、仕事をしながら頑張っていきたい」
一方で、新たな道を開くことができた人がいる。
少数民族カチンの女性ルルさん(仮名)を訪ねた。
「前よりはいいです。少し、少し、進み始めています」
2年半前に会った時は、まだ3回目の難民申請の結論が出ず、「緊急避難措置」は適用されていなかった。
「仮放免」中で、働けない、健康保険もない状態で、当時の取材メモに残る言葉に「希望」はない。
「いつ捕まるか、明日のことはわからない。前は、何になりたい、何がほしいという気持ちがあった。でも長い間何もできなかった。それを考えることが苦しい。人間じゃないみたい。(40代の)この年になって、みんなに迷惑をかけていて、本当は私がいろいろしてあげないといけないのに」
父は軍事政権と戦う武装組織カチン独立軍(KIA)の将校だった。
ルルさんら4人のきょうだいは祖母に育てられ、軍の迫害を恐れながら住む場所を転々とした。
ルルさんも学校を7回変わらざるをえなかった。
日本での難民申請では、こうした事情を訴えたが、認められていなかった。
コロナ禍の21年9月、「私は死んでいたかもしれない」ところまで追い込まれた。
新型コロナワクチンの注射を受けた後、高熱が続いた。
PCR検査で陽性反応が出た。たまたまその時、先の渡辺弁護士と打ち合わせが控えていたことから「コロナになっちゃったので行けません」と連絡した。
深刻な病状に気づいた渡辺弁護士が救急車を呼んだ。
それで入院ができた。夜中になって肺の状態はさらに悪化し、酸素吸入にまで至った。
「息ができない、すごく苦しかった。もし1人で家にいたら、どうしていいかわからなかった」
渡辺弁護士によると、それでも保険証がないルルさんは「救急車にはお金がかかりませんか」と心配していたという。
23年2月、ルルさんに難民不認定の結論が出た。
同時に「緊急避難措置」が適用され「特定活動」の在留資格が与えられた。
ルルさんは、これを受け入れた。
「本当は難民として認めてほしいけど…、私のような人はたくさんいるから」
その年の4月、介護の仕事に就いた。
「私たちきょうだいの面倒を見てくれたのはおばあさん。もし、おばあさんがいなかったら、私のいまはない。介護の仕事は大変だけど、おじいさん、おばあさんが好きなので。でも、もっともっと勉強しないと」
いま働いている老人ホームでは、早番、遅番のシフトや月3回ほどの泊まり勤務をこなす。
入所者には認知症の人も少なくない。
ついさっき食べたことを忘れてしまったり、同じことを何度も聞かれたり。
そんな時は「そうですか、お腹がすいているんですか、わかりましたって言って話を聞く。怒っちゃダメ」と。
とはいえ、すべてが順風満帆ではないのも現実だ。
日本人スタッフからルルさんや仲間のミャンマー人に対し、嫌がらせやパワハラと受け止められるような行為が起きているという。
上司には問題を伝えているそうだが、適切な対応がとられるのかどうか、ルルさんとは連絡をとりつつ注視したい。
先日、渡辺弁護士が久しぶりに電話した時の第一声は、「私、ちゃんと生きてるよ」だったという。
「この言葉はすごく嬉しかった。少数民族で、父親は反政府軍の将校だったので、その家族が難民でないはずがない。実際に生命を失ったかもしれない事態に彼女はいた。それなのに入管から無理難題な証拠を要求され、『立証されていない』と難民性を否定され続けた。私には彼女に十分な庇護をもって応えられなかったじくじたる思いがある。でも、とにかく正規の在留となって、日本で腰を据えて“ちゃんと生きて”くれている。その表現にとても救われた思いだった。在留を正規化することが、人の尊厳の回復には何よりも大切だと痛感する」
ルルさんはいま語る。
「ミャンマーに子どものころからの友達がいて、平和になったら私と一緒に老人ホームを作ろうと言ってくれている。田舎なので土地はいっぱいある。(軍との戦闘で)子どもを亡くしたおじいさん、おばあさんが多い。だから面倒を見られるように。それが私の夢」
参照元∶Yahoo!ニュース