「5年後の生存率は低い」「死ぬかもしれない」22歳で“ステージ3のがん宣告”現役アイドル(24)が明かす、それでもパフォーマンスを続ける理由
22歳で希少がんの一種「滑膜肉腫」と告げられた、現役アイドルの菅原ひなさん。
24歳の現在、所属するアイドルグループ・ゆるっと革命団のステージでは、筋肉を20センチ以上も切除した左足の傷をかばいながら、パフォーマンスへと情熱をそそいでいる。
「30歳を超えてもステージへ立っていられるように」と願いながら、将来への不安も。
それでもなお、アイドルであり続ける意義とは。その胸中を尋ねた。
――故郷・新潟の大学病院での約4ヶ月、抗がん剤治療や左足の筋肉を20センチ以上も切除する手術もあった入院生活を経て、2023年2月9日にはステージ復帰。ライブ終盤、ファンに向けて挨拶しました。
菅原ひなさん(以下、菅原):緊張はなく「やった。東京に戻れる!」と思って、両親と一緒に上京するのが楽しみでした。素直にメンバーやスタッフさん、ファンのみなさんにお礼をしたかったし、ライブでお世話になっていた新宿アルタのKeyStudioでは「応援企画ガチャ」として寄付のためにガチャガチャを企画してくださって。感謝の気持ちでいっぱいで、愛されているなと思いました。
――そこから、パフォーマンスへ復帰するまでの苦労も。当初「ダンスができなくなるかもしれない」と医師に告げられながらも、回復したのは奇跡的です。
菅原:パフォーマンスができるようになるまで、ステージ復帰から1ヶ月ほどかかりました。リハビリに励んだのではなく、日常生活で自主的に感覚を取り戻していったんです。基本的な運動がままならなかったので、しゃがむ練習をしたり、エレベーターを使わずに意識して階段で上り下りしたり、3月2日の誕生日に「杖をつかずに歩いてみよう」と勢いに任せて杖を手放してみたら、歩けたんです。その後、パフォーマンスに復帰したステージがあって、緊張もせず「みんなに踊る姿を見せられる」とワクワクしました。
――何事にも、ポジティブですね。今は、レッスンやライブと並行して定期的に通院しているんですか?
菅原:手術後は左足に太い血管が1本しかない状態になってしまったので、血流をよくするために、都内の病院で薬をもらって飲み続けています。新潟の大学病院には、2~3ヶ月に一度通っているんです。身体の経過観察のため、整形外科にかかっています。
――グループのライブ出演も絶えず、そうとう忙しそうです。
菅原:一番忙しかったのは、新潟へ帰る前日にライブがあったので終電へ駆け込み、お風呂に入ってご飯を食べて、朝6時には東京駅へ向かった日でした(笑)。起きられないだろうと思って寝ずに新幹線へ飛び込み、病院に付き添ってくれた母とランチを食べて、14時頃には新幹線で東京へ戻り、またライブに出演しました。
――Xでは、時々の心情を赤裸々に発信しています。好意的な反応がある一方、心ない反応も届きそうです。
菅原:私と同じく、大きな病気を抱える人たちの支えになればと思っているんです。でもたしかに、心ない反応もありますね。直接ではなくエアリプで「がんで有名になれてよかったね」とか「踊れるようになったんだから、もう病気のアピールはいいでしょ」とか、ショックでしたけど、悲しさよりも「自分を貫いて生きよう」と、新たに決意できました。
――アイドルであるが故に、注目を集めてしまうのかもしれませんね。それでもなお、ステージに情熱を注ぎ続ける世界に飛び込んだ経緯は?
菅原:きっかけは高校時代で、当時は誇れる趣味もなければ世の中を何も知らなくて「自分ってつまらない人間だな」と思っていたんです。そんなときに友人から「アイドルやってみない?」と誘われて、最初は軽いノリではじめました。いざ、ステージへ立つようになったら、歌やダンスで上手くできないと悔しいし、誰かと比べられるとムカつくし、負けず嫌いな自分に合ってる世界だなと感じたんです。いつのまにか火がついて、誰かの生きる活力になりたいと強く思うようになりました。
――シンプルな質問ながら、アイドルの仕事は楽しいですか?
菅原:楽しいです。特殊な仕事じゃないですか。学校や仕事が終わってからファンのみなさんが駆けつけてくれる環境があって、自分の承認欲求も満たせるのは他にないですよね。活動を通して、誰かが笑顔になってくれるのは幸せですし、天職です。
――左足をかばいながらの生活は続いていて、目に見えない障害を抱えながらの日常には苦労もあるのかと思います。
菅原:レッスン後、疲れたまま乗る満員電車はきついです。でも、目に見えない症状を抱えていらっしゃる方が多いのは「ヘルプマーク」を見かけるたびに思いますし、私自身はそれほど強く意識していません。一度、謎のおじいさんに後ろから付け回されたときに、大変さを感じたぐらい。走れないので、危ない人のフリをして奇声を上げたり、とっさに気持ち悪い動きをしたりで、難を逃れました(笑)。
――なかなか怖い……。ステージのパフォーマンスでは、身体の状況に合わせた見せ方も?
菅原:下半身を満足に動かせないので、上半身を大きく動かしています。会場によっては、ステージが低く客席の後ろから見えづらい場所もあるので、その場にいる全員にアピールできるように意識しているんです。初見の方には、病気だと分からないようにしたくて、がんが発覚する以前よりも全力で踊っています。ごまかしも効かなくなりました。
――今でこそ地毛が戻ってきたそうですが、一時期はウィッグを付けてステージに立っていたんですよね。
菅原:2023年1月に退院してから、1年ほどは付けていました。激しく動くと前髪が上がってくるし、取れかかるし。2024年1月ごろからは身体もだいぶ自由になってきて、首を振りながら踊っていたらウィッグが飛びそうになって、焦った日もありました(笑)。
――左足の傷跡を隠すために、衣装ではロングスカートを穿いていた時期もあったと。
菅原:人様に見せるべきではないと思い、ストッキングとロングスカートで隠していました。でも、ある日のライブで勇気を出してミニスカートを穿いてみたら、特典会でファンの方が「傷かっこいいじゃん、頑張った証しだよ」と言ってくださって。それ以来、隠さずに自信を持ってステージに立てるようになりました。
――がんになる前の自分と、今の自分を比べてしまうときもある?
菅原:あります。以前は「こんなに動けていたのに」とふと思ってしまうし、将来への不安もあります。30歳を超えてもアイドルを続けたいとは思うけど、いつか今いるグループを卒業する日が来るとしたら、次に雇ってくれるグループがあるのかなと考えてしまうんです。オーディションでは「心身ともに健康な方」という条件をよく目にしますし、心は元気でも、体が元気とは胸を張って言えないので「大丈夫かな……」と病む日もあります。
――そうした日常の心境は、記録していますか?
菅原:アイドルになってから、スマホで日記を付けています。がんが発覚してからは、入院中も自己肯定感が下がってしまい、ネガティブな感情ばかり書いていたんです。でも、退院後の新たな出会いもあったし、周囲との接し方も変わったのでポジティブになれました。
――がんによる闘病生活を経て、菅原さんの生き方にも変化はあったのでしょうか?
菅原:アウトドア派になりました。がんが発覚する以前は、レッスンとライブ以外はほぼ外出しなかったし、ずっと自宅に引きこもっていたんです。でも、私が患った滑膜肉腫は「5年生存率が低い」と説明を受けたし、死ぬかもしれないのであれば、今を楽しむために遊ぼうと思って。買い物へ出かけたり、友だちとの予定を立てたり。1人でフラッと岩盤浴へ行ってみたり、充実しています。
――周囲との接し方にも、影響がありそうです。
菅原:離れてしまった友だちもいて、たぶん、病気になった私との接し方が分からなくなってしまった子もいると思うんです。でも、家族とはより親密になりました。特に母との関係性は変わりましたね。以前は、ライブを見に来ても「なんで見に来たの?」と、恥ずかしくてつっぱねていたんですけど……(苦笑)。病院での入院中には毎日LINEをもらったし、退院後も頻繁に連絡を取るようになりました。
――周囲の支えもありながらこの先、アイドルとして、がんサバイバーとしてどのように生きていきたいですか?
菅原:初めて見た人に、障害者と見られたくないんです。五体満足な方を見てもうらやましいとは思わないし、似た体験を抱える人たちの力になれるよう、知っている限りの情報を共有していきたいですね。芯にあるのは、誰かの生きる活力になりたいという思いなんです。30歳を超えてもステージへ立っていられるように、恋愛も結婚も何もかも犠牲にして、アイドルを続けていきたいです。
参照元:Yahoo!ニュース