市場激変の裏にカネ余り、米軟着陸予想は維持=尾河眞樹氏
7月末の日銀金融政策決定会合をきっかけにドル円が急落。
これが株価の暴落を招いた、という理由から、衆院財務金融委員会と参院財政金融委員会は、閉会中審査を8月23日に開催し、参考人として日銀の植田総裁の出席が要請されたという。
同決定会合では、声明や植田総裁の記者会見で、あくまで「経済・物価が日銀の見通し通りに推移すれば」の条件付きではあるものの、今後も比較的淡々と利上げを継続するような姿勢が示されたことは、確かに予想以上にタカ派的な印象で、一部の市場関係者にはサプライズだったかもしれない。
しかし、今回のドル円の下落トレンドは、7月11日公表の6月の米消費者物価指数(CPI)の結果が市場予想を下回ったことがきっかけだったと筆者はみている。
シカゴ通貨先物市場IMMにおける投機筋による円の持ち高(ポジション)を見ると、ネット売り越し(円ショートポジション)は、7月2日時点に18万4000枚と、過去最大規模に膨らんでいたが、翌週の16日時点では15万枚まで急速に縮小。
投機筋のポジション調整は既にこの時点で始まりつつあった。
その後月末にかけて日銀金融政策決定会合や、米連邦公開市場委員会(FOMC)などのイベントが続く中で、7月30日には7万3000枚まで円ショートポジションは縮小した。
同FOMC後の記者会見では、米連邦準備理事会(FRB)のパウエル議長が、「9月の利下げ開始もありうる」と明言し、市場参加者にとってはこれもややハト派方向のサプライズとなった。
ダメ押しは8月2日に発表された7月の雇用統計だ。
失業率が4.3%と、市場予想(4.1%)を大きく上回ったことで、唐突に「サーム・ルールにヒットしたから米景気は後退に陥るのではないか?」と「米景気後退説」が広がり、米株価も急落。
サーム・ルールとは、直近3カ月の失業率の平均値から過去12カ月で最も低かった失業率を引いた数値が0.5を上回ると、景気後退の確率が高いという経験則である。
これにより、VIX指数が一時65まで急伸するなど、市場全体がリスクオフに傾くなかで、8月13日時点では、投機筋の円ポジションは、いよいよ2万3000枚の「買い越し(円ロング)」に転じた。
結局、ドル円相場は米CPIの発表があった7月11日の高値161円台から8月1日の安値141円台まで、約20円も下落した。
日米の短期金利差を狙った円キャリー取引により、過去最大級に積みあがった円ショートポジションはこれでようやく解消され、投機筋主導の過度な円安はいったんリセットされたと言えよう。
問題は、7月の米雇用統計は確かに弱かったが、市場が突如景気後退を織り込むほど米労働市場が弱いかどうかだ。
州別のデータから見ると、ハリケーンと自動車工場閉鎖の影響が大きく、一時的な悪化の可能性はある。
また、米コンファレンスボードが公表している「家計による雇用環境判断DI(「仕事が潤沢」-「職探しが困難」)」を見ると、直近7月のデータはプラスの18.1と、緩やかに減速はしているものの「仕事が潤沢」に大きく傾いていることが分かる。
もちろん、労働市場については様々な指標を複合的に確認する必要があるものの、失業率上昇の要因は、単に労働市場の需要が減少しているだけでなく、移民などの要因で労働力の供給が増えていることが影響している可能性もある。
市場では年末までに約1.0%もの利下げが織り込まれているが、ソニーフィナンシャルグループは、米国経済についてソフトランディングを予想しており、年内は0.25%ずつ3回の利下げにとどまるとみている。
<ポジションの一方向の傾り、相場変動を増幅>重要なポイントは、7月末から8月上旬にかけての急激な円高と株価の暴落は、あくまで「投機筋のポジション調整」に過ぎなかったという点だ。
政府にしてみれば、今年から始まった新NISAの普及により、「貯蓄から投資へ」の流れが加速するなかで、相場急変の洗礼による恐怖感から、この流れが止まってしまうことをおそらく懸念しているのかもしれない。
しかし、今回の急速な円高・株安について、もしその責任を日銀に求めるとすれば、ややポイントがずれているように感じる。
相場の「トレンド」というものは、一方向に永遠に続くことはなく、行き過ぎた相場は必ず調整を迎える。
ただ、通常であれば、中期や短期でポジション調整による下落を繰り返しながら長期の上昇トレンドが続いていく。
しかし、今回はあまり調整らしい調整が起きないまま、過去最大まで円ショートポジションが積みあがってしまったことで、巻き戻されるときのマグニチュードが大きくなった。
これには、コロナ以降のグローバルなカネ余りや金融環境の緩みが続いていることで、リスクテイクが促進され、ポジションが一方向に傾く傾向が背景にあると筆者は考えている。
リスクテイクの素地残る、カネ余り依然大きく>日米欧の中央銀行のバランスシートを見ると、金融市場がいかにカネ余りの状態かがよくわかる。
米欧については22年から量的引き締め(QT)を行っているため、足元資産残高は減少傾向にあるが、リーマン・ショック前の2008年1月を100としてみると、FRBは約8倍、欧州中銀(ECB)は約5倍、日銀は約7倍の規模で、コロナショック直前の2020年1月から比較しても、FRBが約2倍、ECBは1.3倍、日銀が1.4倍の規模である。
こうしたマネーがリスクテイクのターゲットにしたのが、日本と諸外国との短期金利差に目を付けた円キャリー取引だ。
先述した「IMMポジション」は、あくまでシカゴ通貨先物市場で取引している市場参加者が、米商品先物委員会(CFTC)に報告したものであって、金融市場全体の投機筋の動きを示しているわけではない。
加えて、為替は様々な要因で変動することから、このポジションだけをみて為替相場を語ることはできない。
しかし、22年央頃から、このIMMの円ポジションとドル円の連動性が、非常に高くなっているのは、やはりカネ余りの影響があるのではないか。
今回の激しいポジション調整により、いったん連動性は崩れたが、今後も今回のようにポジションが一方向に傾いたときには要注意だ。
一方、過去に連動性が高かった日米実質金利差とドル円の相関性は、円キャリー取引の活発化により今年春頃から大きく崩れていたが、今回のポジション調整による急激な円高で、足元は日米実質金利差から推計されるドル円の適正水準にドル円相場が戻ったように見える。
まだ完全に連動性が回復したとは言い難いが、今後は円キャリー取引で重視される日米の短期金利差よりも、景気動向に左右される長期金利のほうに注目が集まり、インフレ期待を差し引いた日米実質金利差が、再びドル円相場の参考になるのではないか。
今後再び円キャリー取引が活発化するかといえば、一回壊れた相場の修復には、しばらく時間がかかるだろうと筆者はみている。
また、日米の金融政策の方向性は明確であるものの、政策金利変更がどの程度のペースで実施されるかは依然不透明であり、米大統領選も混戦模様であることを踏まえれば、ドル円のボラティリティーはしばらく高止まりするため、円キャリー取引には不向きな相場環境となるだろう。
筆者は引き続き日米実質金利差の予想をベースにドル円の見通しを組み立てているが、現状ドル円の年末予想値は142円前後としている。
参照元:REUTERS(ロイター)