津久井やまゆり園の事件から8年、「自分らしく生きる」知的障害者の自立生活と支える人々

障がい者施設をイメージした写真

2016年7月26日、神奈川県相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で、入所者19人が次々と刃物で殺害される事件が発生し、日本中を震撼させた。

犠牲となった人数の多さとともに社会に暗い影を落としたのは、加害者である元職員の男が「意思疎通が難しい」と決めつけた重度知的障害者を人間として見なかったこと、そして、そんな差別的な言動に共鳴するような意見がネットにあふれたことだった。

しかし、重度の知的障害があっても意思疎通ができないなんてことはない。

それどころか、地域で支援を受けながら自立生活を送る人たちがいる。

彼らと支える人たちを取材した。

梅雨入りして間もない蒸し暑い6月下旬の日曜午前。

断続的に雨が降る中、JR水戸駅に向かって走るバスの車内に、重度の知的障害がある小林大(ひろし)さん(35)がちょこんと座っていた。

ときおり「すーわーるっ!」「おはようっ!」など他の乗客が少し目をやるようなボリュームで声を出したり、座席をリズムよくたたいたりしているが、動き回るようなことはない。

隣に座るヘルパー、小森桂介さん(37)はその様子に気を配りながら、大さんが背負う茶色いリュックのポケットから財布を取り出し、バスの運賃を支払う準備をする。

おいしそうにカレーライスを頬張る大さんこの日、2人がバスと電車を乗り継いでやってきたのは、自宅から10キロ以上離れたショッピングモール。

行き先を決めたのは小森さんだ。

土日は散歩と称して、あちこちに出かけるが、この日はあいにくの空模様だったため、屋外を散歩するよりは屋内のほうがいいと考えた。

ショッピングモールに到着し、食事をとろうと3階にあるフードコートに向かう。

お昼時ということもあり、家族連れを中心に大勢の人でごった返している。

「うどんは?」「ラーメンにする?」。

小森さんが店の前を通るたびに大さんに声をかけるが、反応は芳しくない。

どこも気に入らないようだ。

そんなことを繰り返していると、すべての店の前を通り過ぎて元の場所に戻ってきてしまう。

しかし、小森さんがしびれを切らすようなことはない。

あくまで決めるのは大さんだからだ。

何を食べるか決まらないまま、ショッピングモール内を行き来していると、大さんが「カレー」とつぶやいた。

1階レストラン街のステーキ店のショーウィンドーにカレーがあったのでそちらに向かう。

店の前で30分ほど待ち、席に案内されると、大さんは「カレー」と笑顔で言いながら満足そうにハンバーグカレーを頬張った。

大さんには重度知的障害のほか、広汎性発達障害、自閉症がある。

言葉によるコミュニケーションは限られており、光や音に対して人よりも敏感。

特定のものへの強いこだわりもある。

そんな大さんが、常に介護が必要な障害者の生活全般を公的に支える「重度訪問介護」の制度を使って、アパートで自立生活を始めたのは2019年10月のことだ。

重度の知的障害がある人の一人暮らしは、水戸市では初のケースだったという。

主に身体障害者の生活を支える障害当事者団体、「自立生活センター(CIL)いろは」(水戸市)のヘルパー11人が交代で、24時間態勢で大さんの日常生活を支えている。

一人暮らしを始める前のおよそ10年間、大さんは知的障害者の入所施設で暮らしていた。

施設では、物を壊したり、職員の女性に噛みついたりすることがあったという。

起床、食事、作業、就寝……。

生活の全てを管理されていることにストレスを感じていたのかもしれない。

ある日、大さんの兄・透さんが会いに行くと、部屋にこもって穴の空いた靴下を黙々と破っていた。

「自分の知っている弟の顔じゃない」

大さんを見てそう感じた透さんは、当時、自身がヘルパーとして勤めていたCILいろはの稲田康二代表(55)に、大さんの自立生活を支援するよう掛け合う。

当時のことを、稲田代表はこう振り返る。

津久井やまゆり園の元入所者で、現在は神奈川県座間市で自立生活を送る尾野一矢さん「いずれは知的障害のある人の支援を行いたいと考えていましたが、今の人員でできるのかという不安もあった。しかし、映画『道草』(重度の知的障害がある若者が支援を受けながら都内で一人暮らしをする日々を追った、宍戸大裕監督のドキュメンタリー映画。津久井やまゆり園の元入所者で、重傷を負った尾野一矢さんの姿も描かれている)を見て、知的障害のある人の自立生活をイメージできたことで、支援する決断ができた」

ただ、懸念もあった。

ヘルパーが利用者である大さんを管理してしまうのではないか、というものだ。

CILの介助は、先回りしたりせずに当事者の指示によって動くことが基本。

しかし、大さんはヘルパーに興味を示さず、自らの意思を伝えようとすることもほとんどなかった。

大さんの支援の中心的存在であるCILいろはのコーディネーター、本橋和哉さん(36)は「当初は関係性がなかなか築けず、何をしたらいいのかわからなかった。何も訴えがないっていうことは何も求めていないのかな、やっぱり介助というよりは管理なのかな」などと思ったという。

しかし、一人暮らしをするためのアパートが決まり、そこに転居して数カ月が経つころ、大さんに変化が見られた。

「拒否が出るようになったんです。たとえば、それまでは『お風呂にする?』と呼びかけたら言われるがままに入っていたのですが、『いいよね』と答えるようになった。『いいよね』は『~しなくてもいいよね』という意味で、大くんが拒否を表す言葉。『まあ、入らない日もありだよね』と思っていると、しばらく後に『お風呂』と訴えたりする。自分の入りたい時間があるんですね」

このように自分らしさを出せるようになると、ヘルパーとのコミュニケーションもどんどん増えていった。

それとともに生活にリズムができてきた。

月曜日から金曜日の日中は生活介護事業所に通い、帰宅後はいろはのヘルパーのサポートを受けながら過ごす。

土日はヘルパーとともに外出する。

毎日買い物に出かける近所のスーパーの店員や髪を切りに行く美容院の美容師など、ヘルパー以外の人との関わり合いも少しずつ生まれてきた。

稲田代表は「本当に順調にここまできたな、と感じています。スタート時点では、もっと大変だろうというイメージを持っていました。多動、他害・自傷行為といったトラブルが頻繁に起きるのではないか。それによってヘルパーたちも疲弊してしまうのではないか、と。でも、そんなことはなかった」と話す。

大さんが利用している重度訪問介護は、もともとは重度の肢体不自由者を対象とした制度だったが、2014年度から対象が拡大され、重度の知的障害者や精神障害者も利用可能となった。

ヘルパーが自宅を訪問し、見守りを含む生活全般のサポートをする。

大さんの場合のように、24時間態勢でヘルパーが見守るケースもある。

知的障害のある人の自立生活に詳しい東京家政大の田中恵美子教授まだまだ身体障害者に比べると知的障害者の利用者は少ないが、東京家政大学の田中恵美子教授(社会福祉学)によると、2023年の知的障害者の利用者は1126人で、2014年の316人のおよそ3.5倍になっている。

とはいえ、重度訪問介護のサービスを行っている事業所であっても、行動障害のある知的障害者への支援については拒否する事業所の割合も少なくないという。

田中教授は、重度訪問介護について「世界に誇れる制度だと思います。ただ、まだまだ改良の余地はあります。もっと利用も伸ばしていかないと」と指摘する。

実は、この制度が使えるようになるずっと以前から、地域で知的障害のある人たちの自立生活を支えてきた人たちもいる。

東京都目黒区。東急東横線の祐天寺駅と学芸大学駅の中間にあるNPO法人「はちくりうす」の副理事長、櫻原雅人さん(60)が、無着邦彦さん(61)と関わり始めたのは40年以上も前にさかのぼる。

重度の自閉症がある無着さんは1年間の就学猶予を経て、地域の小・中学校の普通学級に通い、その後、都立の定時制高校に進学した。

一方、櫻原さんは、地域で障害のある子どももない子どもも一緒に遊ぶ子ども会の活動に参加しており、そこで当時20歳で定時制高校4年生だった無着さんと出会った。

無着さんが28歳のとき、自宅で大暴れして家じゅうのものを壊してしまう出来事が起きる。

それまで無着さんを普通学級に通わせるなど、地域で生きていくことにこだわってきた母もさすがに参ってしまい、施設入所を口にするようになる。

しかし、無着さんの周囲から「よく考えたら、20代後半の若者が親と一緒にずっと暮らしている環境自体が不自然なのでは?まずは親から離れてみたらどうだろう」という意見が出て、1カ月間、無着さんが週2回通っていた障害者も健常者も一緒に過ごすことができる場所を使って合宿形式で、試験的に親から離れてみると、大暴れがピタッと止まった。

そして、1996年、無着さんが33歳になる年に、シェアハウスで自立生活を始めた。

以来、30年近く、櫻原さんは現在に至るまで無着さんの自立生活に伴走し続けている。

それだけでなく、はちくりうすは、身体と知的の重複障害のある女性2人と重度の自閉症がある女性1人の計3人が共同で生活するのをサポートするなど、知的障害のある人の自立生活を数多く支えている。

「28年間の自立生活の中で、無着さんは『生きる力』というのをすごく身につけていったし、僕らもそれに合わせて成長させてもらった。無着さんがいて、今の僕がある」と語る櫻原さんだが、重度訪問介護という制度ができて、事業として自立生活支援に取り組む人たちとの温度差を感じることもあるという。

「僕らの世代までは『ともに生きる』と言い続けてきたけど、次の世代にもそのことを継承していけるかというと、なかなか現実的には難しいだろうなあと思う。ただ、僕自身は、当事者と生きるのはライフワーク。これからも『ともに生きる』」

櫻原さんと田中教授が関わっている「知的障害のある人の自立生活について考える会」は以前、「知的障害者の自立生活についての声明文」を作成した。

最新版である 2021 年 1 月に発表した第3版の中には次のような文章がある。

「国連障害者権利条約の第19条では、『障害者が、他の者との平等を基礎として、居住地を選択し、及びどこで誰と⽣活するかを選択する機会を有すること並びに特定の⽣活施設で⽣活する義務を負わないこと』と⾔われています。重度の知的障害があっても、それを⽀える⽀援態勢があれば、公的介護(ヘルパー制度等)を活⽤して地域の中での『⾃⽴⽣活(=他の⼈と同等の当たり前の⽣活)』をすることが可能です。しかし、相談⽀援、⾏政のケースワーカー、施設、居宅介護などの⽀援機関も、当たり前に⾝近な地域で暮らし続ける『⾃⽴⽣活』という選択肢を本⼈、家族に提案しない(できない)状況が続いてきています」

つまり、重度訪問介護をはじめとする現行の障害福祉サービスを活用することで地域の中で自立生活をすることが可能なのに、支援機関の多くはそれを知ってからでないと提案しないということだ。

田中教授は「自立生活は最初に提案する選択肢。一人でも多くの人に、『こんな暮らし方ができるんだ!』と思ってもらえるように、とにかく伝えていきたい」と話す。

また、櫻原さんは「自立生活をしている知的障害のある人はパイオニア」と語る。

「もちろん、ほかの知的障害者や家族に『地域での自立生活』という暮らし方があることを伝える、という意味でのパイオニアでもあります。ですが、それ以上に、地域社会に知的障害がある人が生きている、存在しているということを伝えていくという意味合いがある。それはグループホームや入所施設では成り立たない特徴だと思う」

そして続ける。

「人は知らないものに対して恐怖を抱きます。未知の存在は怖い。だけど、知ることによって、気持ちも緩んでいくし、情も湧いてくる」

水戸市で大さんの生活を支えるCILいろはの稲田代表も「なかなか時間がかかるかもしれませんが、知的障害者の自立生活が増えていけば、知的障害のある人が地域で暮らすことが当たり前だと認知されていくと思います。かつての車いすに乗った障害者たちのように」という。

脳性麻痺で手足が不自由な東京大学先端科学技術研究センターの熊谷晋一郎教授の有名な言葉に「自立とは依存先を増やすこと」というものがある。

知的障害者の親にとって、自分が死んだ後、誰が我が子の生活を支えるのかという「親亡き後」問題は深刻で、それが本人の意思に関係なく、それまでの関係や生活から分断され施設に入所することを余儀なくされる大きな理由でもある。

しかし、もし、親や施設以外にも、地域に頼れる人がたくさんいたらどうだろうか。

櫻原さんは語る。

「熊谷さんの言葉ですが、依存先という言葉に反発する人が出るかもしれません。そんなことはしんどい、できない、迷惑をかけられたくないって。でも、なにも誰もがガッツリと支援しよう、っていうことではないんです。例えば『この子が地域に住んでいる限り、俺はここで商売をしているから、細々とだけどずっと何十年も付き合っているよ』という範囲であれば、全然重くない。だけどそういう人がたくさんいたら、当事者を取り巻くセーフティネットは広がっていく。私たちだってそうです。自分の生活圏内に存在を肯定してくれる人がたくさん増えていけば、生きやすい社会に変わっていくと思う」

自立生活を送る知的障害者は、もしかしたら、生きづらさであふれる現代の日本社会を変えるパイオニアとなりうる存在なのかもしれない。

参照元∶Yahoo!ニュース