「泣く子は入るな」追い出され 風化させない、語り継ぐ85歳 祖父母、弟妹失った喜屋武さん・沖縄慰霊の日
約20万人が犠牲になった沖縄戦で、当時6歳だった那覇市の喜屋武幸清さん(85)は、祖父母や幼い弟妹を失った。
「次の戦争を止め、平和をつくるため、悲劇を風化させてはいけない」と訴える。
マリアナ諸島・テニアンで生まれた喜屋武さんは4人きょうだいの長男。
戦争が始まり、父を残して祖父の出身地、沖縄県に引き揚げた。
住んでいた那覇市にも戦火が及び、祖母が艦砲射撃の犠牲に。
沖縄本島南部に逃げる途中、日本陸軍の壕(ごう)に身を寄せたが、「われわれを守るための日本兵が奥に、避難民は入り口に座っていた」と憤る。
近くで戦闘が始まり、さらに避難を余儀なくされた。
母は、当時0歳だった妹を抱き、2~3歳の末の弟を背負った。
二つ下の弟は母のもんぺにつかまっている。
本島南端の糸満市まで歩いた。
「糸満の海は軍艦で埋め尽くされ、水平線が真っ黒だった」と喜屋武さん。
激しい艦砲射撃を受け、祖父を失った。
6月、同市摩文仁にたどり着いた。
海岸近くの壕に入ろうとすると、住民の中に隠れていた日本兵が母に銃を突き付けて言った。
「泣く子は入れない」 「上の2人は泣きませんから助けてください」。
母は懇願し、「母ちゃん、母ちゃん」と泣きすがる末の弟と妹を連れて壕を離れた。
1人で戻ってきた母は、壕の入り口をふさぐように石を積んだ。
3日ほど後、壕の入り口から米兵が「デテコイ、デテコイ」と呼び掛け、最初に飛び出した喜屋武さんを抱き上げて水筒の水を飲ませた。
「命の水」だった。
幼い喜屋武さんには、米兵が天使に、日本兵が悪魔に思えた。
戦争が終わっても、「弟妹はどうなったのか、おふくろを悲しませると思うと聞けなかった」と喜屋武さん。
苦労がたたったのか、母は喜屋武さんが高校1年生の時、心臓病で亡くなった。
38歳だった。
喜屋武さんは今でも、弟と妹が生きているのでは、との希望が捨てられないという。
「誰かに助けられてどこかで大きくなっていやしないか。空想、小説みたいな話だけど、いつも心の中にある」と語る。
今、喜屋武さんは年に数回、修学旅行生の前で体験を語っている。
「あなたが話さないと、沖縄戦がなかったことになるよ」。
母が背中を押してくれているように感じるという。
参照元∶Yahoo!ニュース